親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

目減りしていく価値

今日は自分のキャリアについて考える機会があった、そしてなぜだかそこから飛躍して自分の目減りしていく市場的価値について考えていた。

まずオスとしての価値。もうほぼない。全く無いとしてしまうと死にたくなってくるのであえて『ほぼない』にしている。最近鏡を見るのが辛くなってきた。朝はまだいい。洗顔して髪型をしっかり整えれば割とマシ(だと信じたい)だ。しかし夜に風呂に入る前に鏡を見ると、100人中100人がおっさんだと思う異常独身男性がそこにいる。

続いて労働者としての価値。これは幸いまだしばらくはありそうだ。むしろこれからが労働者としては真の戦いが始まると言っても過言ではないだろう。

だが、あくまで今の話だ。一つの時代を築いたスポーツ選手も寄る年波には勝てず若手にポジションを奪われてしまうのだから、一般人は想像以上に早く、そして無慈悲に若手にポジションを奪われてしまう。どれだけ本人が努力に努力を重ねても、年には勝てない。

しかしそれはあくまで若さがものをいうポジションの話だ。年相応に経験を積めば、長く生きてきたことが武器になるポジションもあるだろう。

だがそれは上手くポジションを移動することができ、かつ年相応に経験を積めた場合の話だ。もし上手くポジションを移動することができなかったり、年相応の経験は積めていなかったとしたら?そもそも更に歳を重ねてしまうと市場的価値はゼロどころかマイナスになってしまう。

自分はただ存在するだけで価値がある。という甘い言葉にすがりつきたくなる。だが資本主義のこの世の中ではそんな言葉は子供のうちに効き目は完全に切れてしまい、ただ単語を繋げただけ意味のない文字に変わってしまう。まるで電池が切れる寸前のように歩くお年寄りに自分がなったときにそのような言葉をかけられて嬉しいと感じるとは全く思えない。

そもそも電池が切れそうになりつつも自分の足で歩いていられるだけまだ幸せかもしれない。自分では身の回りの世話を何一つすることができず、薬や栄養を点滴を自分の体で受け止めて死を待つだけの肉の水槽のようになっている可能性のほうが遥かに高いだろう。

そんな状態であなたはただ存在しているだけで価値がある。などと言われても鼻で笑ってしまうだろう。何一つ生み出すことができず、他人に頼ることしかできない自分に何が価値があるのか……と。

いや、逆にそういう状態だからこそそのような甘い言葉が心に染み渡るのかもしれない。自分の祖父はガンで亡くなる直前はモルヒネも投与されていたようだ。その頃の祖父は本当に穏やかな表情をしていた。それより少し前は苦しくてたまらないのか、耳をふさぎたくなるような声を上げていた。だが、モルヒネを投与してからは苦しそうな声を上げることはなくなった。自分はまだ子供だったというのもあるのだが、祖父は良くなっていっていると勘違いをしてしまったほどだ。

そんなモルヒネのように心の痛みを取るのが甘い言葉なのかもしれない。言葉の麻薬だ。