親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

異常独身男性とは何か

2020年に入り、Twitter上で『異常独身男性』というワードをよく見かけるようになってきた。そしてこの『異常独身男性』だが、明確な定義が無い印象がある。

見た目のよくない男性を中傷するのに使われるいわゆる『チー牛』はイラストと共に広まったこともあって「ああいう感じ」という共通認識があるのに対し、『異常独身男性』は人によって定義がまちまちだ。

ただ単に『独身』とすればいいところを、「俺はいい年こいて独身なんだぜ」というのを面白おかしく自虐するために使われていることもあったり、Twitterに大量に存在しているモテない男性の総称として使われていることもある。女性を求めているけど相手にされない男も、ある種の悟りに達してしまった男もみんなまとめて異常独身男性だ。

そして自分自身も異常独身男性だという自覚がある。まともに女性と付き合ったこともなく、相手にもされず、最近では外で幸せそうなカップルを見かけるのが小指の角をタンスにぶつけた時並にストレスを感じるので家から出ることがなくなり、一人で楽しめる趣味を極め続け、外に出ないと運動不足になってしまうので毎日体のどこかを鍛え続けた結果、使う機会も無いし見せる相手もいないのに妙に体つきがよくなるというジャングルの奥地に棲む奇妙な姿をした生物のような異常進化を遂げている。個人的には理想的な異常独身男性だと思っている。

よって恋人がいる(いたことがある)人間が異常独身男性を名乗っているところを見ると、「君はただの独身男性だよ……」とクソリプを飛ばしたくなってしまう。

しかし異常独身男性は今の所決まった定義があるわけではない。だから恋人がいようがいまいが、仕事をしていても、無職でも本人が異常独身男性だと思ったら、異常独身男性なのだ。(異常独身男性に対しておかしなプライドを持っていたら完全に異常独身男性になってしまっている気がするが)

 

2020年宇宙の旅

今日は午後からひたすら小説を書いていた。休日はついだらけてしまって平日の方が書いている時間が多くなってしまうこともあるが、今日はそうなることなくしっかりと書き進めることができた。

小説を書いているといつの間にか自分が普段考えているが上手く言語化できなかったものが言語化できていることがある。自分はこういうことを大事に考えている、自分はこういうシチュエーションが好き、自分はこういうことに恐怖を感じる……など様々だ。

小説の登場人物の思想は自分の思想とイコールでは無いが、自分の一部からできていることは間違いない。その一部に肉をつけてキャラクターを作っていくといつの間にかその『一部』がはっきりとしたものになっている。自分のはっきりとしない欲望から作ったキャラクターはいつの間にか自分がどのような欲望を持っているかはっきりとさせてくれる。

やはり小説を書くことは楽しい。自分のボキャブラリーの無さ、知識の無さに辛さを感じることはあるが、ひたすら小説を書いていると自分という洞窟を探検しているような、自分という宇宙を探検しているような気分になってくる。そしてそれをすることによって自分の無意識の中に存在していたものの観測できなかったものを観測することができる。その瞬間『自分』という存在の中身が広がったような感覚がある。無だと思っていたところは無ではなく、自分の一部だった。そんな感覚だ。

最近はツイッターと小説ばかりでブログを書くことが減ってしまったが、やはりブログを書くのはそれらとは別の楽しさがある。やはり文章を書くのは楽しい。こうやって自信を持って「自分はこれが好き」と言えるものが見つけられたのはやはり幸運なことだ。好きなことをやって楽しんでいる間だけはモテない自分を受け入れることができる。これからも細々と続けてこの世に生きた証を残していこう。

目減りしていく価値

今日は自分のキャリアについて考える機会があった、そしてなぜだかそこから飛躍して自分の目減りしていく市場的価値について考えていた。

まずオスとしての価値。もうほぼない。全く無いとしてしまうと死にたくなってくるのであえて『ほぼない』にしている。最近鏡を見るのが辛くなってきた。朝はまだいい。洗顔して髪型をしっかり整えれば割とマシ(だと信じたい)だ。しかし夜に風呂に入る前に鏡を見ると、100人中100人がおっさんだと思う異常独身男性がそこにいる。

続いて労働者としての価値。これは幸いまだしばらくはありそうだ。むしろこれからが労働者としては真の戦いが始まると言っても過言ではないだろう。

だが、あくまで今の話だ。一つの時代を築いたスポーツ選手も寄る年波には勝てず若手にポジションを奪われてしまうのだから、一般人は想像以上に早く、そして無慈悲に若手にポジションを奪われてしまう。どれだけ本人が努力に努力を重ねても、年には勝てない。

しかしそれはあくまで若さがものをいうポジションの話だ。年相応に経験を積めば、長く生きてきたことが武器になるポジションもあるだろう。

だがそれは上手くポジションを移動することができ、かつ年相応に経験を積めた場合の話だ。もし上手くポジションを移動することができなかったり、年相応の経験は積めていなかったとしたら?そもそも更に歳を重ねてしまうと市場的価値はゼロどころかマイナスになってしまう。

自分はただ存在するだけで価値がある。という甘い言葉にすがりつきたくなる。だが資本主義のこの世の中ではそんな言葉は子供のうちに効き目は完全に切れてしまい、ただ単語を繋げただけ意味のない文字に変わってしまう。まるで電池が切れる寸前のように歩くお年寄りに自分がなったときにそのような言葉をかけられて嬉しいと感じるとは全く思えない。

そもそも電池が切れそうになりつつも自分の足で歩いていられるだけまだ幸せかもしれない。自分では身の回りの世話を何一つすることができず、薬や栄養を点滴を自分の体で受け止めて死を待つだけの肉の水槽のようになっている可能性のほうが遥かに高いだろう。

そんな状態であなたはただ存在しているだけで価値がある。などと言われても鼻で笑ってしまうだろう。何一つ生み出すことができず、他人に頼ることしかできない自分に何が価値があるのか……と。

いや、逆にそういう状態だからこそそのような甘い言葉が心に染み渡るのかもしれない。自分の祖父はガンで亡くなる直前はモルヒネも投与されていたようだ。その頃の祖父は本当に穏やかな表情をしていた。それより少し前は苦しくてたまらないのか、耳をふさぎたくなるような声を上げていた。だが、モルヒネを投与してからは苦しそうな声を上げることはなくなった。自分はまだ子供だったというのもあるのだが、祖父は良くなっていっていると勘違いをしてしまったほどだ。

そんなモルヒネのように心の痛みを取るのが甘い言葉なのかもしれない。言葉の麻薬だ。

全力 SPECIAL LIFE!! ~限りある人生~

先月くらいから新人賞に応募すべく小説を書き続けている。新人賞に応募する作品なので「少しでも良いものを書こう!」と考えてしまい、どうしても遅筆になってしまう。結果ブログはほとんど書かなくなり、なろうに書いている小説も1日に2行くらい書ければ上出来と言えるくらいの進行速度になってしまった。おかげで小説を書いている時間は以前より増えたにも関わらず、書いた文字数は目に見えて減ってしまった。その結果、逆に以前より思うように書けなくなってしまった。質にこだわりすぎてしまったのが原因だ。

当然だが質より量なんてことはない。絵で例えるならば左を向いて微笑んでいる生首を量産したところで一生絵は上手くならないのと同じだ。しかし質を追求しすぎるのもよくない。100点を目指して何一つ完成させられないよりは50点のものを量産するほうが気付きがあるはずだ。そして最初は50点でも、51点、52点……と徐々に同じ時間でも良いものが作れるようになっていく。どんなものでも上達への道は泥臭いものなのだ。

最近仕事のために新しい技術を使う必要があったのだが、最初は「こんなクソみたいなものでいいのかな……」と悩みながらもググりつつ手を動かしていた。だがその『クソみたいなもの』ができてしまうことに悩みつつも止まらず手を動かしていたおかげでまあまあなものは作れるようになった。おかげで自信がついた。最初は下手くそでも、「まあ今はこんなもんだろ。次だ次!」と割り切ることが大事なのだ。

最近は何分も全く書かずにただPCの前でウンウンと唸っていることが増えてきている。考える時間は大事だが、考えすぎるのは時間の無駄だ。せっかく貴重な時間を使って女の子と付き合うことを諦めて小説を書いているのだから、もっと有意義に時間を使えるように意識を切り替えて行こうと思った夜でした。

相手の心を読めたなら

昨日は小さいオフ会を開いた。だいたい休日は誰とも話さず引きこもって一人でできる趣味を満喫しているので、休日にこのように誰かと一緒に過ごすのは最後にこのような日があったのはいつだったか思い出せないくらい久しぶりのことだった。

筋肉は鍛えないと衰えていく。人と話す力も同じように鍛えないと衰える。昨日は人と話す力がやはり衰えていると痛感せずにはいられなかった。会話はできるのだが、これでいいのか。と頭を使いながら話していることが多かった。

キャッチボールで例えると、ボールを投げる。という行為は体が覚えているのでボールを投げるのはまずボールを手で握って、そして振りかぶって……といちいち頭の中で考えなくてもすることはできる。だが相手の方に向かって投げるときにどれくらいの力加減かが分からないため、おっかなびっくりしながら相手にボールを投げている……といった状態だ。

キャッチボールならば多少失投したところで相手の眼球に当たってしまったりだとか、よほどのことがなければ相手のことを傷つける可能性は低い。しかし言葉のキャッチボール(会話)は思った以上に簡単に人を傷つけることができる。そして傷つく基準は人によって思った以上にバラつきがある。

会話って怖い。やはり自分の言葉で他人を傷つけるという事は避けたい。だがそれを怖がっていると誰とも話せなくなってしまう。誰とも関わることができなくなってしまう。一人は気楽だが、ふとしたときに寂しさを感じる。だから誰かと傷つくことを承知で関わっていくしか無い。つまり自分の発言で誰かのことを傷つけ、誰かの発言で自分が傷つくことを受け入れるということだ。こうやって文章にしていたらまた人が怖くなってきた。もっと他人の考えてることが分かるようになればいいのにな。

意識的に前向きな記事

今日は仕事で色々あり、帰宅途中に不快な目にあった。おかげで最寄り駅に着く頃には頭の中がネガティブな感情でいっぱいだった。

だがネガティブな感情はある程度のところを超えると逆に気持ちよくなってくる。表情は引きつり、気持ち心臓の鼓動が早くなり、ペンで紙に適当にグチャグチャ書いたものが立体化して頭の中に収まっているような状態なのになぜかなんだか気持ちよくなってくる。不思議だ。

家に帰るまでそのネガティブな感情をブログに書く気満々だった。だが夕飯ができるまでシャドーボクシングをして汗をかいたらそんな考えはどこかに吹き飛んでしまった。逆に「そんなもの記事にしてどうするんだ」と間逆な事を考えていた。

人間の感情は移ろいやすい。一時期真剣に悩んでいたものが気がつけばどうでもよくなったりするなんてことは日常茶飯事だ。だが強い感情を抱くと今の状態がずっと続くような錯覚を起こしてしまう。イライラするのは疲れているからかもしれないし、もしかしたら体調が悪いからかもしれない。誰かのことが憎くてたまらなくても、一歩引いて見てみたらしょうもなく思えてくるかもしれない。

最近はイラっとしたら「お前は疲れてるだけ」と言い聞かせるようにしている。そう言い聞かせるだけで自分の頭の中の状態を一歩引いたところから見られるようになる。自分の感情なのに自分の感情ではないような錯覚がある。だが錯覚でも何でも、それによって毎日が過ごしやすくなるなら積極的に活用したほうがいいはずだ。

感情が湧くことは止められないけど、その感情をどうするかはコントロールできる。頭では分かっていたが、最近やっとそれを上手くできるようになってきた気がする。いつまで今の体と付き合っていくか分からないが、機械のように取り替えたりはできない。上手くコントロールして良好な関係を築いていきたいものだ。