親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

空気中に流れ出す自分

一時期は毎日一記事は必ず書いていたのに、気がつけば一ヶ月ブログを書いていなかった。

書かなくなった理由は、ブログを書く時間で小説を書くようになったというのもあるのだが、何か書きたくなっても「こんなの書いてもしょうがなくないか?」と思うようになったからだ。

モテないことや、将来の不安、劣等感を書きなぐったところで、結局は傷つく事を覚悟で走り出すしかない。悲しい事実だが、ある日好感度MAXの女の子が目の前に現れたり、トラックにはねられて死んだと思ったら力を持って異世界に転生するなんてことは起こらないのだ。

これまた堂々巡りをしている。悩みを解決するために書くのではない。悩みを客観的に見るため、楽になるために書くのだ。

気がつくとこの大事な事実を忘れてしまい、そしてブログを書くことで思い出すのだ。まるでここまでがワンセットになっているかのようだ。

そんなふうに何かと理由をつけて書かないでいたのだが、ある日自分の頭の中の状態が以前と違うことに気がついた。

「自分の今の状態を誰かにうまく話す力が落ちた気がする」

人に自分の今の状態を話す事は難しい。他人は自分の頭の中を覗くことはできないから、言わないと相手が状況を理解できないことを、『自分は分かっているから』という理由でつい省いてしまう。

相手に状況を理解してもらいたいときは、自分でも話し過ぎかなと思うくらい前提条件をしっかりと話したほうが伝わるし、「それってどういうこと?」と聞き返される回数も減らせる。

それが昔よりうまくできなくなってしまった。なんというか、自分という固形が空間に溶け出してはじめ、自分と自分以外の境界が曖昧になってしまったような感覚がある。そのせいで、自分の外も自分に思ってしまっているのかもしれない。

もちろんそれはおかしいし、そんなことはありえない。仕事中誰かと話すときも気がつけばそうなってしまうので気をつけるのだが、プライベートで人と話をしているとつい他人には言わないと状況が理解できないことを省いてしまったりする。

これって何なのだろう。単純に人と話すことが減り、自分の世界に閉じこもりがちになったことが原因なのだろうか。

それはともかく、女の子と語らなくても伝わる仲になりたい。

 

古いは悪なのか

散歩の途中に見かけたリサイクルショップに入ってみた。

普段あまり中古品を買うことがないのだが、使いみちのわからない謎のパーツや、今まで見たこともないような年代物が並ぶ店内を眺めるのは、まるで博物館にいるような気分になってくるのでリサイクルショップ自体は好きだ。

初めて入った店内には、期待を裏切らない商品たちが陳列されていた。初めて見た謎のゲーム機、聞いたこともない怪しいメーカーのなんのために使われるものか想像のつかない部品たち。

すぐ店を出るつもりが、初めて見る謎の商品たちを眺めるのが楽しくて店内をうろついているうちに、ゲームソフトの並んでいる棚の前にやってきた。

陳列というよりは『ただ入れられている』表現がふさわしい昔のゲームが入った傷だらけの水色の容器を覗き込むと、その中に入ったゲームたちはほとんど値札がついていなかった。よく見ると箱には『値札のついていないゲームはすべて110円です』と書かれていた。

そして何より驚きなのが、その110円のゲームのほとんどはPS2のソフトなのだ。PS2は当時の衝撃から比較的新しいハードに感じてしまうが、もう20年近く前のハードだ。だから評価が低いゲームに110円という投げ売り価格がつけられてしまうのは仕方がないことだ。

それでも、110円というカップヌードルより安い値段をつけられてしまったゲームたちを眺めていると「なんでこんなに安い値段がつけられてしまうんだろう」と大人が思ってはいけないことを頭の中でつぶやかずにはいられなかった。

当然110円という値段になってしまう理由はわかっている。よほどの名作か希少価値でもなければ昔のハードのゲームの価値はない。110円という価格でも買う人はまずいないだろう。

だが、今はそのような値段になってしまっていたとしても、発売当時数千円はしただろうし、買った人たちはそれなりに楽しんでいたはずだ。しかし知らないゲームに110円という値段がついているゲームを見ると、「あまりおもしろくないのかな?」と思ってしまう。実際、今やってもそこまで面白くないのかもしれない。しかし、当時は面白かったかもしれない。それは今となってはわからない。

実は110円の値段がついているゲームの中に、当時結構楽しんでいたゲームがあった。どんなものでも必ず古くなり、価値が落ちる。値段が上がるのは古くなることに価値があるものだけだ。そうだとわかっていても、「やはり古いものには価値がないのだろうか」と棚の前で考え込んでしまった。

それは極端な考えだと分かっているが、色落ちした昔好きだったアニメのDVDや、昔好きだったゲームソフトが安く売られているとそんなことはないと否定しつつも、完全に否定することはできなかった。

それでもやはりインターネットはやめられません

インターネットって人の暮らしを便利にしたけど、幸せにはしていないよな。とふと思った。

確かにインターネットがなければ自分は相変わらず人と上手く話せなかっただろうし、今でもサイズの合わないダサい服を着て外を出歩いていただろう。

それに、インターネットがなければ絶対に関わることがなかった人と知り合うことができた。それによって楽しい思いをすることができた。インターネットがない人生なんて、もう考えられない。

しかし、よく考えてみれば対人テクニックも、服のセンスも、試行錯誤の末に手に入れることはできただろうし、インターネットがなければ関わることがなかった人と絶対に知り合うことがなかったかと言えば、そうでもないだろう。知り合い、深く関わることができた人とは共通の趣味があったり、考え方に共通点があるのだ。確かに遠くに住んでいたり、生活圏が違っていてもインターネットのおかげで知り合うことができたことは間違いないが、同じ場所に居合わせれば仲良くなることはできたんじゃないかと思う。

加えて、簡単に情報を得ることができる、インターネットがなければ絶対に関わることがなかった人と話をすることができるようになったことは負の側面もある。

知らないまま死んでいったほうが良かったと思うようなことを知ってしまい、それが日常生活に影響を与えてしまったこともある。

インターネットという顔を合わさずにやりとりができるということは、言ってしまえば怒った相手から攻撃されるという危険を考慮せずに済むということだ。そうすると、人間の本性である攻撃性が姿を表す。相手にも人の心があることを忘れ、人格や尊厳を踏みにじるようなことを抵抗なく言えてしまう。恐ろしいことだ。そのような見るとしばらくは嫌な気分が続いてしまうような書き込みをインターネットでは毎日のように見かけてしまう。

彼ら彼女らは現実世界では別にそこまで凶暴ではないかもしれない。実際話をしてみたら、話しやすくて優しい人かもしれない。しかし、外に出さないだけでそのような一面があるのだろう。そして、当然インターネット上で攻撃性を顕にしてしまう人達だけがそのような一面を持っているのではなく、人間誰もが持っているのだと思う。そしてその攻撃性は、人類が地球上の覇者になる過程で獲得したもので、非難できるものではない。

人間は人間社会で生きていくために本来は体毛の薄いサルでしかないのに、理性という薄い服を着せられ、あたかもそれが服ではなく生まれつき生えている体毛のように振る舞うことを期待される。しかし実際はそんなことない。簡単に脱げてしまうのだ。その脱いでしまう場がインターネット上だったり、人によっては現実世界でも簡単に脱ぎ捨ててしまうのではないだろうか。

別に毎日何時間もツイッターを見る必要なんて無い。インターネットで仲良くなれる人を探す必要がないとは言わないが、公式のアカウントだけフォローしておいて必要なときだけ見ればいい。それ以外の時間は友達と過ごしたり、趣味に没頭すればいい。

もちろん、現実世界に居場所がない人にインターネットという世界は自分が輝ける場所になっていた一面は否定しない。それでもやはり、ふとした瞬間に人類にインターネットは早すぎると思ってしまう。

ありふれた独身男性の雑記

「プロフェッショナル 仕事の流儀」庵野秀明スペシャルをリアルタイムで見た。庵野秀明監督の特異さの断片を伺い知ることができる1時間15分だった。同時に庵野監督ほどの人間でも、ありふれた事で悩むのだなと(当たり前だけど)再認識することができた。

当然1時間15分で彼の事を全て知ることはできないし、見えないところで気が遠くなるほどの努力を積んできたことは想像に難くない。だが自分がどんなに頑張っても、今の記憶を持ったまま転生できたとしても、彼のような特別な人間にはなれないだろうな。と思わずにはいられなかった。

残念ながら自分はありふれた存在だ。普通、ではなく「そういう奴いるよね」と思われる多くの人間の期待を悪い意味でもいい意味でも応えた存在だ。自分みたいな人間は可視化されていないだけで、細かいところは違えど多くいるはずだ。

ツイッターで統計が掲載されている記事を共有して「自分は~じゃないから、当てはまらない」というような『自分はちょっと違いますよアピール』ツイートをしている人も、残念ながらありふれた存在だろう。逆に全部に当てはまってしまう人は違う意味で特別な存在だ。

最近自分の人生もちょっとずつ面白くなってきたと思っているのだが、別に特別な人生を送れているわけではないはずだ。『何者』かになりたくて何かを創っている人は数多くいるだろうし、全く女に縁のない人生だっけど気まぐれで女に気に入られてしまって調子に乗ったところが頂点。女は本命のところに行ってしまい、あっさり自分は捨てられてしまう。なんてこともありふれた話だ。

いけない。気がつけばまた女の話になってしまった。なるべく女の話はしたくないと思っているのに、気がつけばまた女の話になってしまう。だが、しょうがないのだ。結局男は女のために生きているのだ。我々のはるか昔のご先祖様に存在していたであろう、メスには興味なくオス同士で楽しそうにやっていた個体は絶滅してしまったのだから。

残ったオスはみんなメスが第一のような精鋭ばかりになってしまうのは仕方がない。たまに男だけで楽しそうにやっている女の影を感じさせないグループは、配られたカードがしょぼすぎて諦めてしまったか、運悪く母側の血に残り続けてしまった『メスに興味ない』を受け継いでしまった個体だろう。ご愁傷さまです。残念ながら俺も仲間です。

話がそれてしまったが、まあ、人間という存在に生まれてしまった以上『ありふれた』からはよほどのことがなければ逃れられないだろう。存在するかわからないが、人間より上の上位存在から見れば、どんな一芸に秀でた人間もありふれた存在になってしまうだろうし。

しかしまあ、特別という意味での『スペシャル』な存在になるのは難しいかもしれないが、今の自分より強くなることはできるはずだ。1日ひとつだけ、強くなろう。

 

部屋の湿度より収入を上げてくれ(一般的独身男性の日常)

最近は時間があれば新人賞に応募する作品のアイディア出しをするようにしている。

どうせ書くなら今までに書いた作品よりいいものにしたい。過去に書いた作品はプロット作成が早すぎたという反省から、プロット作成に入る前の準備に時間をかけているが、過去に書いた小説より良くしようという思いが良くも悪くも邪魔をしてしまい、思うように作業が進まない。

気がつくと息抜きと称してツイッターを眺めてしまったり、お菓子を食べてしまったり、youtubeで毒にも薬にもならない動画を見てしまう。あとに残るのは罪悪感と、目の疲労感。あとで自己嫌悪感に苦しむと分かっているのに、やめられない。ファッションの解説動画はまだ勉強になるからいいとして、古いゲームのTASなんて見たって意味がない。たまにそうやって脇道にそれることによってアイディアが思いつくことがあるが、それは基本的に考慮しても意味のないことだ。俺は愚かだ。殺してくれ。

そんな一日を過ごしていると「あー、やっぱり俺ダメだな」と自己憐憫というぬるま湯に浸かりそうになってしまうが、それこそがダメだ。今の自分を受け入れるしか無い。その上で、どうやったら今よりツイッターyoutubeで時間を無駄遣いしてしまう事を避けられるか考えたほうが生産的だ。

こんな事は今までの人生で何度も考えてしまっている事は当然分かっている。だが、人は過ちを繰り返すのだ。頭で分かっていても、人間という生物は基本的に怠惰なので楽な方向に流れてしまうのだ。だからこうやって定期的に自分に言い聞かせて、自分を奮い立たせ、なだめるのだ。

女の子は救済ではない。死こそ救済。

新しい服でいい気分になった話

最近メンズファッションはビッグシルエットが流行っている。
服屋に行くとやはり大きめの服が売っているし、働いている店員さんもビッグシルエットだ。
上手く着こなしている人を見かけるとおしゃれだな〜。と思うし、ビッグシルエットは欧米の人に比べて体型がきれいとは言えない日本人の体型を隠してくれる。だから年を取って体型が崩れ始めた人も、もともと太ってる人もこのビッグウェーブに乗ったほうがいい。
自分もジャストサイズの服ばかり着ていないで、ビッグシルエットに手を出そうと思ってはいるのだが、中々手が出せないでいた。
理由は、当時とは細かいところが違うとはいえビッグシルエットに90年代さを感じてしまうことだ。
もちろんブームは繰り返すと頭ではわかっているし、当時とは着る服も色使いも違うと分かっているが、どうしてもビッグシルエット=古いものと頭が認識してしまい、着る気が起きなかった。
それに自分はなんだかんだで体を鍛えているので、せっかくの体型が隠れてしまうのが気に食わない。
そしてなにより、昔の自分を思い出してしまうからだ。といっても昔の自分はビッグシルエットではなく、ただサイズがあってなかっただけなのだが。
それでも、こじつけ感があるのだがどうしてもなかったことにしたい昔のダサい自分を思い出してしまうのだ。そのダサかった頃にDQNに絡まれて「アッアッアッ」としか言えなかった頃の自分を思い出すと今でも死にたくなる。
あと着慣れたジャストサイズから動くのが怖い。
しかし最近流石にこのままじゃまずいと思って何枚かオーバーサイズの服を買ってみた。
来た直後は違和感しかなかったのだが、それを着て歩いているうちに意外と悪くないことに気づいた。ビッグシルエットだと、体が大きく見える。体の大きさはオス的な強さの要素の一つだ。自然と気持ちも、態度も、歩き方も変わっていた。なんだか楽しい。これは良い。
やはり、食わず嫌いは良くない。ささいなことだが、コンフォートゾーンから抜け出せたことで爽快感がある。でもやっぱり下半身は細い服を着たほうがかっこいい気がする。

薄っぺらい

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が上映されてしばらく経ち、感想記事を見かけることが増えていく一方だ。

感想の中には熱くなりすぎて庵野秀明監督への人格否定にまで達してしまっているものすらある。人格否定までしてしまうのは行き過ぎだとは思うのだが、何千文字も熱く語れる面倒くさいオタクを見ていると、うらやましくなってくる。

あれがダメ、ここがダメと細かいツッコミをひたすら書き連ねるのも、きっと彼の大好きでたまらない庵野秀明監督ならきっとそれくらいできたはずだという期待の現れだろう。どうでもいいと思っていたのなら、わざわざ貴重な時間を使って長文の記事なんて書いたりしないはずだ。文中ではひたすら文句ばかりだが、それほどまでにエヴァンゲリオンという作品を愛し、楽しんでいたことが伝わってくる。

自分が何かをそこまで熱くなりすぎて周りの人がめんどくせーと思うまでに語れたことがあっただろうか。ないかもしれない。なにかに夢中になっても、ここまで言語化できたことはなかった。面白かった、楽しかった、つまらなかったという汎用性のある、細かいニュアンスが一気に削ぎ落とされる言葉で終わらせてしまっていた。

昔は分厚かったわけじゃないけど、薄っぺらい男になっちまったなーと思ってしまう。まあ、これから分厚くなればいいだけなんだけどね。