親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

日曜日の葛藤

今日も某アプリで知り合った相手と会う予定......だったのが、またドタキャンされてしまった。電車の中で『すみませ~ん。行けなくなりました!』というメッセージを見た瞬間、眉間には深いシワが寄り、大きなため息をついてしまった。メッセージを受け取ったのは12:10頃で、予約した時間は13:00だ。キャンセルするには遅すぎる。悩んだ末、一人で行くことにした。

店に入ると、入り口近くにあるレジの前で店員さんとカップルが何かを話していた。2人は予約をしておらず、現在店内は満席のようだ。

頭より先に体が先に動き、2人の会話に割り込んだ。

「すみません、予約していたものなんですが、一人来られなくなっちゃったのでこちらの2人に譲りたいんですが」と全く躊躇すること無く言葉が出ていた。

その場で店員さんに自分の予約をキャンセルしてもらい、2人を代わりに席に案内してもらった。2人はとても礼儀正しく、譲った瞬間と、店員さんに席を案内してもらう2回、自分に向かってお礼を言ってきた。

いいことをした。店を出てしばらくは足取りが軽く、視界にカップルが入っても全く気にならなかった。昼食は久しぶりに一風堂にすることにした。どろりとしたスープを飲んだ瞬間、快感にも似た安心感を抱いた。とんこつラーメンはやはり良い。

 

しかし、その譲ったことによる効能は長くは続かなかった。それどころか、譲ったことについてある種の後悔を抱き始めてしまっていた。

日頃カップル憎しなスタンスなのに何お前は譲ってるんだ?カップルが残念そうに店を出ていくのを尻目に食べるランチはきっと美味しいぞ?何いい人ぶって一風堂なんて行ってるんだ?こんなことしてるからお前はいてもいなくても変わらない、ただのいい人、無害な男にしかなれないんだぞ?

と言ったことを考え始めてしまい、苦しくなってきてしまった。

人としてはいい事をしたとは思う。だが、オスとしてはどうなのだろう?いや、いい事をしたのだから素直に「いいことしたな」と思えばいいのに、ウジウジとこんなことを考えてしまうからやはり俺はこんな有様なのだろう。しかし、これが俺なのだ。色気のある悪人にはなれなさそうだ。

 

ドタキャンしない方、僕と交際を前提に食事に行きませんか?

悩むことに使う時間

ここ数日小説のプロットが完全に行き詰まってしまっている。いい結末が思いつかないのだ。序盤~中盤まではなかなかいい出来だが、肝心の結末がさっぱりまとまらないのだ。

そんなことをしていると、いつの間にか手段と目的が逆になってしまう。面白いと思えるプロットを書くことが目的なのに、結末を考えることが目的になってしまい、視野狭窄に陥ってしまう。そして手癖で思いつくようなアイディアばかりを組み合わせてどうにかしようとしてしまい、そんな状態ではいいプロットなんてできるはずもない。

それでもやはり物語を考えるのは楽しい。これが苦痛になってしまっていたら、とっくの昔に投げてしまっていはずだ。しかし同時に難しい。小説に限った話ではなく、何事も時間だけ過ぎていき、進捗なしなんてことはザラにある。

それでも、その状態がしばらく続いていると焦る。これでいいのか。少し前に戻ったほうがいいのではないか。一旦白紙に戻してゼロからやり直したほうがいいのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。何事も効率的にやりたい。今の状態はムダなのではないかと考えずにはいられなくなってしまう。しかしその答えはわからない。案の定無駄かもしれないし、悩み続けるという長いトンネルを抜けられたことで一皮むけることができるかもしれない。

そして今は自分を信じたい気分だ。きっと、うまくいく。

しかしハルヒを潰された恨みは忘れていない

今日は情報処理技術者試験の日だった。TLで何人かが受験しているのを観測した。合格してることを願ってます!

ちなみに自分はというと、応募すらしていない。一応WEBエンジニアの端くれなのでその手の資格を取っておいたほうがいいよなとは思っているのだが、今日もアニメを見たり、次の新人賞に応募する小説のプロットを書いたりしていた。

正直な話をすれば、7:3くらいの割合で小説を書く時間を資格取得に充てたほうがいいと思っている。情報処理技術者試験で得られるのは国家資格だ。持っていればある程度の知識を有しているということが証明できる。今のご時世、いつ今働いている会社が消滅するか分からない。再就職活動をするときに履歴書に強い資格が書かれていれば、それだけで採用担当の目に止まりやすくなる。自分のいる業界は資格ありきではないとはいえ、持っていて損することはないだろう。

それでもやはり、小説を書くことを選ぶ。自分の過去の話をさせてもらうと、WEBエンジニアをするまでは全く別の事をしていた。さらにその前はWindows用のパッケージソフトを作る仕事をしていたとはいえ、基本的にはほとんど勉強し直しだった。そんな経歴なので、年齢の割にキャリアが全く積めていない。スキルをリスト化すると様々な部分がスカスカなのだ。だったらなおのこと勉強して遅れを取り戻した方がいいと思うのだが、以前このようなつぶやきをした。

するととある人からもう無理だから小説を頑張ろう(要約)というリプライが飛んできて、背中を押された気がした。今の会社では指定した資格を取れば一時金がもらえたり、給与がアップする特典がある。しかしもし小説が当たったときに比べるとその金額や得られる名誉は微々たるものだ。だったら小説を書こう!一発逆転を狙うんだ!

『一発逆転を狙う』という響きには死亡フラグしか感じられないが、別に仕事をやめてるわけでもないし、仕事中こっそり技術的な勉強もしている。例えるならば、『バッティングセンターにある160kmのボールでホームランを打つために、毎日仕事が終わった後は家で素振りをしている』という感じだろうか。目指せ人生逆転ホームラン!

精神衛生上極めて良くない記事

気がつけばつい「愛がほしい」とツイートする回数が増える一方だ。そんなことしても「私と付き合いませんか?」なんて言ってくれる女の子なんて現れるはずはないのに。女性というのは性別の役割上男を見る目は厳しいからだ。Twitterで愛がほしいなんてツイートするような、いかにも弱そうなオスには嫌悪感を抱くようにできている。

というわけで少し前に「この金で美味しいもの食べに行ったり、本が買えるよな」と思いながらマッチングアプリを入れてみた。が、今の所会える気配はまるでない。マッチングアプリは新世代の出会いツールだとかいうが、そんなことはない。あれは巨大なサル山だ。サル山では階級ピラミッドの上位にいる強いオスしかメスと交尾することが許されない。それと同じように、いくら試行回数を増やしたところでピラミッド下位に位置する自分ではまるで意味がない。

そもそもこんな出会い方は望んでいない。誰もが思っていると思うが、マッチングアプリだとか男女が交際を目的したような場ではなく、自然な出会い方をしたい。しかしこれもやはり難しい。まずそういう場が見つからないし、過去に自然な出会いがあって「いいな」と思った相手には大体男がいた。一体その男たちはどこで彼女達のハートを射止めてるんだ。

もっと悲しい話をすると、同じコミュニティにいたどうしても好きになれなかった男と、当時思いを寄せていた女の子がいつの間にかくっついていた。なんてこともあった。今思えば、典型的なBSS(僕が先に好きだったのに)だった。

そしてそんな男がいる彼女たちには非モテをバカにされたり、そのうちいい人が見つかるだのという他の世界の常識をのたまわれたり。ふざけるな。

Twitter上では少し前にアレな方たちが緊急避妊薬について熱く語っていたが、まず性欲を抑える薬が先だろ。火事が多かったら消火器を増やす前にまず防火対策するのに、なぜやること前提なんだよ。そして緊急避妊薬がそこまで必要とされるほどに、相手のことを考えないような男がこの世にはのさばっているということだ(避妊具やぶれたといかそういうのもあるかもしれないけど)。ふざけるな。なんでそんな男が愛を得ることが出来て俺はこんななんだよ。日に日にカップルが視界に入ったときの苦痛が入っていくし、お肌のハリも徐々になくなっていく一方だ。筋トレをしているとはいえ、最近つい食べすぎてしまう。体つきがだらしなくなってしまう日もそう遠くないだろう。男としての価値が加速度的に無くなっていく。消えるように死んでしまいたいと思うこともある。

特にオチはない。なんだかそんなことを書きなぐりたくなってしまった。反省はしていない。

ちょっと前向きになれた話

『生存バイアス』と『死人に口なし』って似たような意味だよな、とふと思った。

前者は生き残った者たちについての意味で、後者は敗れてしまった者たちについての意味だが、何について言いたいかは大体同じだ。

世の中には成功者が書いた本が溢れているし、逆境を乗り越えて栄光を手にした人の記事はネットで探せばいくらでも出てくる。しかし、彼ら彼女らの足元には大量の屍が眠っている。自分もその死人の一人だ。

基本的に世の中の殆どの人は凡人なので、一部のぶっ飛んだ成功者の話より、敗れてしまった死人達の話のほうが遥かに教訓になる。だが、そういう話は地味で面白くないし、気が滅入る。夢も希望も無くなってくる。

実際はそんな事はまず起こらないが、退屈で緩やかな苦痛を感じる日々がいつか劇的に変化する時が来るのではないか。日常を過ごしているとそんなことを考えずにはいられない。しかし、そんな死人達の話を目にしてしまうとそんな朧気な希望すら持てなくなってしまい、完全に生きる気力を失ってしまう。

それでも、この緩やかな苦痛を感じる毎日をぶっ壊すには、口なしの死人になってしまうにしても、自分がやれることをやっていくしかない。人間誰もが「自分は他人と違う」と思ってしまうのは、きっとこのためなのだ。

 

だから今日も右に倣う

日常において「この人非常識だな~」と呆れてしまったり、苛ついてしまったりすることがたまにある。

とは言ったものの、アインシュタインは「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである」という言葉を残している。自分が当たり前だと思っている常識は、他人の常識ではないかもしれない。

しかしそんな偏見のコレクションでも『多数派』がやはり存在する。多少の違いはあっても、大抵の人が同じようにコレクションしている『もの』が存在する。

そこのコレクション状況が他人と違っていると、コミュニティによっては糾弾されたり、表立って非難されないにしても「この人非常識だな」といつの間にか嫌われてしまっているかもしれない。

その表立って非難はされない。というのが地味に怖い。一人で好き勝手に誰にも頼らずに生きていくなら全く問題ないかもしれない。だがそんな生き方ができるのは一部の天才だけだろう。大抵の人は誰かに頼る必要がある。そこで相手に「この人非常識だからあまり関わりたくないんだよな」と思われていたら問題が発生する。相手も見かけ上は協力的を演じてくれるかもしれないが、見えない所は適当にされてしまう危険性が高まる。嫌っている相手に頼まれたことをしっかりやろうと思う人間なんてそうそういない。

だからこの常識という多数派がかかっている催眠術に自分もかかったフリをしておくのは、この世の中で生きていくのに必要なスキルかもしれない。

個人的には右に倣えというのはクソくらえ!と思っている。それでもみんなこの集団催眠から目を覚ませ!とは絶対に思わない。もし全員が目を覚ましてしまったら、恐ろしいことになりそうな気がしてならない。

無読

便利な世の中になった。何か気になったことがあればスマートフォンで大抵のことは調べられる。

そんな便利な道具を誰もが持つような時代になっても、満たされない感覚を常に抱いている。スマートフォンは生活を豊かにしてはくれたけど、人の心に関しては豊かにするどころか、貧しくしてしまったような、不感症にしてしまったような、そんな感覚がある。