親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

シナモンと経典と崇拝

約一週間前にクリーニングに出したシナモンのぬいぐるみがやっと返ってきた。在宅勤務のときは膝に乗せながら仕事をしていたし、毎晩抱きしめて寝ていたのであちこちが黒ずんでしまっていたのだが、まるで新品のようだ。

最近メンタルが不調だったのは彼がいなかったせいかもしれないと本気で思っている。

他人からすれば、所詮は『ただのぬいぐるみ』だ。しかし、この特大サイズの『シナモンのぬいぐるみ』は三次元にいる自分と、二次元の世界にいるシナモンをつなぐための神具(誤字ではない)のようなものなのだ。

自分は恋愛という無慈悲な自由戦争には敗れ、大した収入があるわけでもなく、他人に自慢できる特技があるわけでものもない、誰かの人生という美しい物語の脇役兼噛ませ犬として生きることを宿命付けられたような人間だ。

そんな競争から逃れることができない資本主義の家畜のような男でも、勝者の盛り上げ役としてレースに参加することが強制される。

参加したくはないのだが、悲しいことに競争には参加賞がある。その参加賞は生きていくためには必要で、敗北を強制されながらも、競争から降りることはつまり死を意味する。サーキットで周りはレーシングカーなのに自分はリヤカーで走り続けるようなものだ。どんなに追いつこうとしても疲れるだけだ。

シナモンというキャラクターは、そんな競争を強いられる敗北者の逃避先であり、神のような、いや、神であり信仰なのだ。

そしてシナモン公式アカウントは経典だ。シナモンが仲間たちと楽しそうに遊んでいるイラストつきのツイートを見ると、自分もそこにいるかのような気分になるし、シナモン単体のツイートでも笑顔になったり、温かい気持ちになったり、凝り固まった心と身体がほぐされるような感覚を抱く。

アニメやゲームなど様々なコンテンツに触れてきて、好きになったキャラクターはたくさんいる。しかし、女性キャラクターには性的な願望が混じってしまうし、男性キャラは好きというより憧れという感情が近い。だがシナモンにはそういった感情が(あったらマズイけど)全く無い。100%混じりっけなしの愛情しかない。こんな感覚ははじめてた。

シナモン公式のツイッターは自分に向けられたものではないと分かっていても、顔がいいわけでもない、頭がいいわけでもない、金があるわけでもない自分を受け入れてくれているような気がするし、家にいるでかいシナモンのぬいぐるみは純度100%の笑みを向けてくれる。ありがとうシナモン。

それにシナモンが好きなことで女の子と仲良くなるきっかけを作ることもできた。これもなかなか大きい。ありがとうシナモン!

ところでせっかく返ってきたからシナモンを抱きしめたいのだが、また汚くなってしまうと思うと躊躇してしまう。しかしシナモンがだきしめてほしそうにこちらをみている。女の子も抱きしめたいけどシナモンも抱きしめたい!

ツイッター依存症治したい

「ブログか小説を書く、もしくはアニメを見るでもいい。ツイッターを見るのをやめろ!」

ツイ廃用WebサービスTweetDeckで滝のように流れてくるツイートを見ながら心の中でそう叫んだものの、体は言うことを聞いてくれなかった。

今やりたいことはたくさんある。新人賞を目指して小説を書きたいし、読みかけの本はたくさんあるし、将来食いっぱぐれないように技術の勉強をしたいし、隣を歩いてくれる女の子を見つけたい。

そんな状況にも関わらず、ツイッターを見てしまう。まだ自己嫌悪を抱くだけならいい。こんなに怠けていては新人賞なんて死ぬまで書いててもムリだろうし、読みかけの本は増えることはあっても減らないし、読むのに時間をかけすぎてしまうと身につかない。だからといって小説ばかり書いてても潰しは効かないから技術の勉強をしていつ会社が消滅しても困らないようにしたいし、隣を歩いてくれる俺のメインヒロインを見つけて腐敗臭を放つ劣等感を爆殺したい。

どう考えてもツイッターなんか見ている場合ではない。このままでは変にプライドだけ高くて大した能力もない、異常独身男性の進化系、無敵の人になってしまう。自分に残された時間はないのだ。

それにも関わらず、小説を書いていても、本を読んでいても、ふとした瞬間にツイッターを開きたくなってしまう。当然「いや我慢だ」と言い聞かせて作業に集中する。しかし「ツイッターを見たい」という意識が生まれてしまった時点で負けなのだ。その欲求は徐々に自分の集中力を奪っていき、ついに我慢できなくなってツイッターを開いてしまうのだ。

だからといって、やめるわけにも行かない。田舎から出てきて一人暮らしをしている自分には近くに友達がいない。もう最近は誰かと遊ぶとなると、100%ツイッターで知り合った人だ。そんな状態でツイッターをやめてしまったら……。

いや、そもそもこの状態はまずいかもしれない。間違いなく将来は黒い粘液だろう。そう遠くない未来、高齢単身者は孤独死保険のようなものに入らなければ賃貸を契約できなくなるだろう。

一般的異常独身男性と緩やかな死

平日朝。始業開始時間ギリギリに二度寝から目を覚ます。別に厳格に時間が決まっているわけではないので、ベッドから抜け出す時間はその日によってまちまちだ。

会社PCにリモート接続して出勤登録を行い、洗顔とひげ剃りを行う。女子高生は拾えない。鏡を見るたび、気がついたら目立つようになってきた目の周りのシワや、丸くなってきた顔にうんざりする。もうやる気が出ないが、保湿だけはしっかりやる。表情筋トレーニングもやる。

寝間着姿でPCの前に座り、サブディスプレイで録画したアニメを流しながらやる気ないなりに仕事を始める。気がつくとアニメの内容がまったく頭に入ってこなくなるくらい集中してしまう。いいことなのだが、まさに『消化』という気がしてよくない。

キリのいいところや集中力が切れたタイミングでお湯を沸かし、沸くまでに体がなまらないよう軽い運動をする。その間も上司や同じプロジェクトのメンバーから送られてくるSlackには即返信し、PCの前にちゃんといますよアピールは忘れない。

リモートで会社PCに接続しているのでレスポンスが悪くてイラっとすることもあるが、家なら好きな音楽もかけられるし、笑い声が気持ち悪い上司もいないのでなんだかんだで家が一番集中できる。

昼間。午後は顔出しの打ち合わせがあるのでそのタイミングで着替えを済ませ、髪型も別に突っ込まれることはないだろうと新しいヘアセットに挑戦する。この前は佐藤健の髪型を真似してみたら超サイヤ人のような頭になってしまった。

常々小説を書かなきゃと思いながらも結局マンガを読んでしまったり録画したアニメを見てしまったりと、殆ど書けることがない。自己嫌悪を抱えたまま午後に突入する。

午後もあまり午前と変わらずに仕事をするが、サブディスプレイにはアニメではなくKindleで技術書を表示して気分転換に読む。プライベートで読む気は殆ど起きないのに、仕事中だと何年も発売を待っていたマンガの最新刊か?と思うほど読み進められてしまう。不思議だ。

16時くらいから疲れが出始め、目に見えて集中力がなくなってくる。このくらいからついついツイッターを見る時間が長くなってくる。危険信号だ。

夕方に一旦上司にその日の進捗を報告し、8時までにはぜったいに退勤する。ここからが自分の時間の始まりだ。

筋トレをしながらアニメを一本消化する。最近目に見えて体力が落ちてきている。メニューは変わっていないはずなのに、途中で体が言うことを聞かなくなってくる。通勤はなんだかんだで運動になっていたということなのか、加齢が原因なのか……前者だと信じたい。

夕飯を食べ、風呂から上がってしばらくツイッターを眺めた後『何者活動』小説を書き始める。

だが悲しいことに深夜と創作活動の相性は良くない。ただでさえ疲れでパフォーマンスが落ちているし、深夜とは憂鬱になりやすい時間だ。上手く書けないと、理想とはほど遠い自分に自己嫌悪で死にたくなってきてしまう。さっさと寝て朝早く起きる生活に矯正しようと思ったことがあるが、意志が弱いせいでただ睡眠時間が増えるだけだった。だがこの記事を書いていて、またやろうかなと思うようになってきた。でも今日はダメそうだ。

日付が変わったくらいに少し本を読んで、朝ツイッターを開いたら女の子からDMが来ていないかを期待しつつ、目を閉じる。もちろん来たことはない。

ちなみに、この前深夜のテンションでLINEの連絡先にある女の子に片っ端にメッセージを送ったのだが、全く返ってこなかった。悲しい。

 

ここまで読んだ人は、どこが「異常独身男性なんだよ!というか一般的でもねえだろ」と思ったかもしれない。

だが、考えてみてほしい。若い頃からライフスタイルの変化がほとんどなければ、実年齢と精神年齢の差は開いていく一方だ。

そして人間とはおろかなもので、道を歩いていてお年寄りを見かけても心のどこかで「自分はああはならない」と思ってしまうものだが、現実はそんなことはなく、少しずつ体のあちこちが老けていく。

そんな肉体年齢と自認年齢の差が開いていくのを少しでも遅らせるべく体を鍛えたり、『1人でできる』新しい趣味を始めたりする。だが年齢には勝てず、昔は熱中していた趣味も気がつけば全くやらなくなっていたことを忘れてしまう。

昔は現実の女の子なんてどうでもよかったのに、気がつけば恋しくてたまらなくなる。マッチングアプリをやってみたり、ツイッターで女の子にDMや気持ち悪いリプライをを送ってみたりするものの、結局うまく行かなくて挫折する。

そんな行き場のない女の子への欲求をツイッターでつぶやくと、面白がってくれる人が思ったりいるせいで、気がつけばツイッター上でピエロを演じてしまう。しかしそんなことやっていても女の子が寄ってくるなんてことはまずない。トラックに跳ねられて異世界転生できる可能性のほうがまだ高い気がする。

人間として劣っている自分を補うため、創作活動に手を出す。絵を書いたり、音楽を作ったり、小説を書いたり、ゲームを作ったり……。案外楽しかったりするのだが、若い頃からずっと創作活動を続けている自分と同年代の人や、一回り以上の才能のある人と比較して劣等感に苦しむことになる。自分が年齢相応の何もないことに絶望し、すべてを放り投げたくなってしまう。

まさに『若者』という幼虫が幼虫のままでもなく、成虫でもない、異形の存在と化した『異常独身男性』ではないだろうか。

そして、細かいところは違っていても、似たような境遇の独身男性は日本にありふれているはずだ。だから一般的なのだ。

最近は将来への不安、理想とはほど遠い自分へのストレスから食べる量が増える一方だ。今日も食べすぎてしまって死にたい。やはり1人だとどこまでも自堕落になってしまう。ひげを剃って、そして女子高生じゃなくてもいいので女の子を拾いたい。できれば黒髪ロングストレート美少女で。

空気中に流れ出す自分

一時期は毎日一記事は必ず書いていたのに、気がつけば一ヶ月ブログを書いていなかった。

書かなくなった理由は、ブログを書く時間で小説を書くようになったというのもあるのだが、何か書きたくなっても「こんなの書いてもしょうがなくないか?」と思うようになったからだ。

モテないことや、将来の不安、劣等感を書きなぐったところで、結局は傷つく事を覚悟で走り出すしかない。悲しい事実だが、ある日好感度MAXの女の子が目の前に現れたり、トラックにはねられて死んだと思ったら力を持って異世界に転生するなんてことは起こらないのだ。

これまた堂々巡りをしている。悩みを解決するために書くのではない。悩みを客観的に見るため、楽になるために書くのだ。

気がつくとこの大事な事実を忘れてしまい、そしてブログを書くことで思い出すのだ。まるでここまでがワンセットになっているかのようだ。

そんなふうに何かと理由をつけて書かないでいたのだが、ある日自分の頭の中の状態が以前と違うことに気がついた。

「自分の今の状態を誰かにうまく話す力が落ちた気がする」

人に自分の今の状態を話す事は難しい。他人は自分の頭の中を覗くことはできないから、言わないと相手が状況を理解できないことを、『自分は分かっているから』という理由でつい省いてしまう。

相手に状況を理解してもらいたいときは、自分でも話し過ぎかなと思うくらい前提条件をしっかりと話したほうが伝わるし、「それってどういうこと?」と聞き返される回数も減らせる。

それが昔よりうまくできなくなってしまった。なんというか、自分という固形が空間に溶け出してはじめ、自分と自分以外の境界が曖昧になってしまったような感覚がある。そのせいで、自分の外も自分に思ってしまっているのかもしれない。

もちろんそれはおかしいし、そんなことはありえない。仕事中誰かと話すときも気がつけばそうなってしまうので気をつけるのだが、プライベートで人と話をしているとつい他人には言わないと状況が理解できないことを省いてしまったりする。

これって何なのだろう。単純に人と話すことが減り、自分の世界に閉じこもりがちになったことが原因なのだろうか。

それはともかく、女の子と語らなくても伝わる仲になりたい。

 

古いは悪なのか

散歩の途中に見かけたリサイクルショップに入ってみた。

普段あまり中古品を買うことがないのだが、使いみちのわからない謎のパーツや、今まで見たこともないような年代物が並ぶ店内を眺めるのは、まるで博物館にいるような気分になってくるのでリサイクルショップ自体は好きだ。

初めて入った店内には、期待を裏切らない商品たちが陳列されていた。初めて見た謎のゲーム機、聞いたこともない怪しいメーカーのなんのために使われるものか想像のつかない部品たち。

すぐ店を出るつもりが、初めて見る謎の商品たちを眺めるのが楽しくて店内をうろついているうちに、ゲームソフトの並んでいる棚の前にやってきた。

陳列というよりは『ただ入れられている』表現がふさわしい昔のゲームが入った傷だらけの水色の容器を覗き込むと、その中に入ったゲームたちはほとんど値札がついていなかった。よく見ると箱には『値札のついていないゲームはすべて110円です』と書かれていた。

そして何より驚きなのが、その110円のゲームのほとんどはPS2のソフトなのだ。PS2は当時の衝撃から比較的新しいハードに感じてしまうが、もう20年近く前のハードだ。だから評価が低いゲームに110円という投げ売り価格がつけられてしまうのは仕方がないことだ。

それでも、110円というカップヌードルより安い値段をつけられてしまったゲームたちを眺めていると「なんでこんなに安い値段がつけられてしまうんだろう」と大人が思ってはいけないことを頭の中でつぶやかずにはいられなかった。

当然110円という値段になってしまう理由はわかっている。よほどの名作か希少価値でもなければ昔のハードのゲームの価値はない。110円という価格でも買う人はまずいないだろう。

だが、今はそのような値段になってしまっていたとしても、発売当時数千円はしただろうし、買った人たちはそれなりに楽しんでいたはずだ。しかし知らないゲームに110円という値段がついているゲームを見ると、「あまりおもしろくないのかな?」と思ってしまう。実際、今やってもそこまで面白くないのかもしれない。しかし、当時は面白かったかもしれない。それは今となってはわからない。

実は110円の値段がついているゲームの中に、当時結構楽しんでいたゲームがあった。どんなものでも必ず古くなり、価値が落ちる。値段が上がるのは古くなることに価値があるものだけだ。そうだとわかっていても、「やはり古いものには価値がないのだろうか」と棚の前で考え込んでしまった。

それは極端な考えだと分かっているが、色落ちした昔好きだったアニメのDVDや、昔好きだったゲームソフトが安く売られているとそんなことはないと否定しつつも、完全に否定することはできなかった。

それでもやはりインターネットはやめられません

インターネットって人の暮らしを便利にしたけど、幸せにはしていないよな。とふと思った。

確かにインターネットがなければ自分は相変わらず人と上手く話せなかっただろうし、今でもサイズの合わないダサい服を着て外を出歩いていただろう。

それに、インターネットがなければ絶対に関わることがなかった人と知り合うことができた。それによって楽しい思いをすることができた。インターネットがない人生なんて、もう考えられない。

しかし、よく考えてみれば対人テクニックも、服のセンスも、試行錯誤の末に手に入れることはできただろうし、インターネットがなければ関わることがなかった人と絶対に知り合うことがなかったかと言えば、そうでもないだろう。知り合い、深く関わることができた人とは共通の趣味があったり、考え方に共通点があるのだ。確かに遠くに住んでいたり、生活圏が違っていてもインターネットのおかげで知り合うことができたことは間違いないが、同じ場所に居合わせれば仲良くなることはできたんじゃないかと思う。

加えて、簡単に情報を得ることができる、インターネットがなければ絶対に関わることがなかった人と話をすることができるようになったことは負の側面もある。

知らないまま死んでいったほうが良かったと思うようなことを知ってしまい、それが日常生活に影響を与えてしまったこともある。

インターネットという顔を合わさずにやりとりができるということは、言ってしまえば怒った相手から攻撃されるという危険を考慮せずに済むということだ。そうすると、人間の本性である攻撃性が姿を表す。相手にも人の心があることを忘れ、人格や尊厳を踏みにじるようなことを抵抗なく言えてしまう。恐ろしいことだ。そのような見るとしばらくは嫌な気分が続いてしまうような書き込みをインターネットでは毎日のように見かけてしまう。

彼ら彼女らは現実世界では別にそこまで凶暴ではないかもしれない。実際話をしてみたら、話しやすくて優しい人かもしれない。しかし、外に出さないだけでそのような一面があるのだろう。そして、当然インターネット上で攻撃性を顕にしてしまう人達だけがそのような一面を持っているのではなく、人間誰もが持っているのだと思う。そしてその攻撃性は、人類が地球上の覇者になる過程で獲得したもので、非難できるものではない。

人間は人間社会で生きていくために本来は体毛の薄いサルでしかないのに、理性という薄い服を着せられ、あたかもそれが服ではなく生まれつき生えている体毛のように振る舞うことを期待される。しかし実際はそんなことない。簡単に脱げてしまうのだ。その脱いでしまう場がインターネット上だったり、人によっては現実世界でも簡単に脱ぎ捨ててしまうのではないだろうか。

別に毎日何時間もツイッターを見る必要なんて無い。インターネットで仲良くなれる人を探す必要がないとは言わないが、公式のアカウントだけフォローしておいて必要なときだけ見ればいい。それ以外の時間は友達と過ごしたり、趣味に没頭すればいい。

もちろん、現実世界に居場所がない人にインターネットという世界は自分が輝ける場所になっていた一面は否定しない。それでもやはり、ふとした瞬間に人類にインターネットは早すぎると思ってしまう。

ありふれた独身男性の雑記

「プロフェッショナル 仕事の流儀」庵野秀明スペシャルをリアルタイムで見た。庵野秀明監督の特異さの断片を伺い知ることができる1時間15分だった。同時に庵野監督ほどの人間でも、ありふれた事で悩むのだなと(当たり前だけど)再認識することができた。

当然1時間15分で彼の事を全て知ることはできないし、見えないところで気が遠くなるほどの努力を積んできたことは想像に難くない。だが自分がどんなに頑張っても、今の記憶を持ったまま転生できたとしても、彼のような特別な人間にはなれないだろうな。と思わずにはいられなかった。

残念ながら自分はありふれた存在だ。普通、ではなく「そういう奴いるよね」と思われる多くの人間の期待を悪い意味でもいい意味でも応えた存在だ。自分みたいな人間は可視化されていないだけで、細かいところは違えど多くいるはずだ。

ツイッターで統計が掲載されている記事を共有して「自分は~じゃないから、当てはまらない」というような『自分はちょっと違いますよアピール』ツイートをしている人も、残念ながらありふれた存在だろう。逆に全部に当てはまってしまう人は違う意味で特別な存在だ。

最近自分の人生もちょっとずつ面白くなってきたと思っているのだが、別に特別な人生を送れているわけではないはずだ。『何者』かになりたくて何かを創っている人は数多くいるだろうし、全く女に縁のない人生だっけど気まぐれで女に気に入られてしまって調子に乗ったところが頂点。女は本命のところに行ってしまい、あっさり自分は捨てられてしまう。なんてこともありふれた話だ。

いけない。気がつけばまた女の話になってしまった。なるべく女の話はしたくないと思っているのに、気がつけばまた女の話になってしまう。だが、しょうがないのだ。結局男は女のために生きているのだ。我々のはるか昔のご先祖様に存在していたであろう、メスには興味なくオス同士で楽しそうにやっていた個体は絶滅してしまったのだから。

残ったオスはみんなメスが第一のような精鋭ばかりになってしまうのは仕方がない。たまに男だけで楽しそうにやっている女の影を感じさせないグループは、配られたカードがしょぼすぎて諦めてしまったか、運悪く母側の血に残り続けてしまった『メスに興味ない』を受け継いでしまった個体だろう。ご愁傷さまです。残念ながら俺も仲間です。

話がそれてしまったが、まあ、人間という存在に生まれてしまった以上『ありふれた』からはよほどのことがなければ逃れられないだろう。存在するかわからないが、人間より上の上位存在から見れば、どんな一芸に秀でた人間もありふれた存在になってしまうだろうし。

しかしまあ、特別という意味での『スペシャル』な存在になるのは難しいかもしれないが、今の自分より強くなることはできるはずだ。1日ひとつだけ、強くなろう。