親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

部屋の湿度より収入を上げてくれ(一般的独身男性の日常)

最近は時間があれば新人賞に応募する作品のアイディア出しをするようにしている。

どうせ書くなら今までに書いた作品よりいいものにしたい。過去に書いた作品はプロット作成が早すぎたという反省から、プロット作成に入る前の準備に時間をかけているが、過去に書いた小説より良くしようという思いが良くも悪くも邪魔をしてしまい、思うように作業が進まない。

気がつくと息抜きと称してツイッターを眺めてしまったり、お菓子を食べてしまったり、youtubeで毒にも薬にもならない動画を見てしまう。あとに残るのは罪悪感と、目の疲労感。あとで自己嫌悪感に苦しむと分かっているのに、やめられない。ファッションの解説動画はまだ勉強になるからいいとして、古いゲームのTASなんて見たって意味がない。たまにそうやって脇道にそれることによってアイディアが思いつくことがあるが、それは基本的に考慮しても意味のないことだ。俺は愚かだ。殺してくれ。

そんな一日を過ごしていると「あー、やっぱり俺ダメだな」と自己憐憫というぬるま湯に浸かりそうになってしまうが、それこそがダメだ。今の自分を受け入れるしか無い。その上で、どうやったら今よりツイッターyoutubeで時間を無駄遣いしてしまう事を避けられるか考えたほうが生産的だ。

こんな事は今までの人生で何度も考えてしまっている事は当然分かっている。だが、人は過ちを繰り返すのだ。頭で分かっていても、人間という生物は基本的に怠惰なので楽な方向に流れてしまうのだ。だからこうやって定期的に自分に言い聞かせて、自分を奮い立たせ、なだめるのだ。

女の子は救済ではない。死こそ救済。

新しい服でいい気分になった話

最近メンズファッションはビッグシルエットが流行っている。
服屋に行くとやはり大きめの服が売っているし、働いている店員さんもビッグシルエットだ。
上手く着こなしている人を見かけるとおしゃれだな〜。と思うし、ビッグシルエットは欧米の人に比べて体型がきれいとは言えない日本人の体型を隠してくれる。だから年を取って体型が崩れ始めた人も、もともと太ってる人もこのビッグウェーブに乗ったほうがいい。
自分もジャストサイズの服ばかり着ていないで、ビッグシルエットに手を出そうと思ってはいるのだが、中々手が出せないでいた。
理由は、当時とは細かいところが違うとはいえビッグシルエットに90年代さを感じてしまうことだ。
もちろんブームは繰り返すと頭ではわかっているし、当時とは着る服も色使いも違うと分かっているが、どうしてもビッグシルエット=古いものと頭が認識してしまい、着る気が起きなかった。
それに自分はなんだかんだで体を鍛えているので、せっかくの体型が隠れてしまうのが気に食わない。
そしてなにより、昔の自分を思い出してしまうからだ。といっても昔の自分はビッグシルエットではなく、ただサイズがあってなかっただけなのだが。
それでも、こじつけ感があるのだがどうしてもなかったことにしたい昔のダサい自分を思い出してしまうのだ。そのダサかった頃にDQNに絡まれて「アッアッアッ」としか言えなかった頃の自分を思い出すと今でも死にたくなる。
あと着慣れたジャストサイズから動くのが怖い。
しかし最近流石にこのままじゃまずいと思って何枚かオーバーサイズの服を買ってみた。
来た直後は違和感しかなかったのだが、それを着て歩いているうちに意外と悪くないことに気づいた。ビッグシルエットだと、体が大きく見える。体の大きさはオス的な強さの要素の一つだ。自然と気持ちも、態度も、歩き方も変わっていた。なんだか楽しい。これは良い。
やはり、食わず嫌いは良くない。ささいなことだが、コンフォートゾーンから抜け出せたことで爽快感がある。でもやっぱり下半身は細い服を着たほうがかっこいい気がする。

薄っぺらい

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が上映されてしばらく経ち、感想記事を見かけることが増えていく一方だ。

感想の中には熱くなりすぎて庵野秀明監督への人格否定にまで達してしまっているものすらある。人格否定までしてしまうのは行き過ぎだとは思うのだが、何千文字も熱く語れる面倒くさいオタクを見ていると、うらやましくなってくる。

あれがダメ、ここがダメと細かいツッコミをひたすら書き連ねるのも、きっと彼の大好きでたまらない庵野秀明監督ならきっとそれくらいできたはずだという期待の現れだろう。どうでもいいと思っていたのなら、わざわざ貴重な時間を使って長文の記事なんて書いたりしないはずだ。文中ではひたすら文句ばかりだが、それほどまでにエヴァンゲリオンという作品を愛し、楽しんでいたことが伝わってくる。

自分が何かをそこまで熱くなりすぎて周りの人がめんどくせーと思うまでに語れたことがあっただろうか。ないかもしれない。なにかに夢中になっても、ここまで言語化できたことはなかった。面白かった、楽しかった、つまらなかったという汎用性のある、細かいニュアンスが一気に削ぎ落とされる言葉で終わらせてしまっていた。

昔は分厚かったわけじゃないけど、薄っぺらい男になっちまったなーと思ってしまう。まあ、これから分厚くなればいいだけなんだけどね。

あなたには失望しました

「今までの人生で失敗ばかりだったせいか、自分に自信が持てず、全てを諦めてしまっている。そしてそれが表情に出ている」

このような事を面と向かって言われてしまった。チクチク言葉どころかグサグサ言葉だ。主観的には自分は変われたと思っていたのだが、たった数年程度の努力ではダメなようだ。まあ、なんとなく分かっていたけどな!

こんな事言われるのは地団駄を踏みたくなるし、何とか自分を変えようとしてみたものの、未だに『そっち側』から離れることができない自分が悔しくてたまらない。

昔はそうじゃなかった気がする。無駄な自信にあふれていた気がする。だがそれはきっと勝負をしていなかったからなのだろう。別に昔は強いわけではなかった。1敗2敗と敗北を重ねていくうちに徐々に自信ポイントが減っていき、気がつけば自分に自信を持てなくなってしまったのだ。

人間社会で生きていく以上、勝負は避けられない。受験、就職、恋愛、仕事。様々な場面で誰かが勝てば、必ず誰かに負けが押し付けられる。そして負けを誰かに押し付けられる人間は勢いづき勝利の階段を登り、負けを押し付けられ続ける人間はどん底へ沈んでいく一方だ。そこに一発逆転はない。

そして負けグセは負けたという事実以上のモノを負けグセがついてしまった人間に与えてしまう。今までダメだったのだから、どうせ今回もダメだろうと勝負をしなくなってしまう。諦めの人生だ。敗北が無い代わりに勝利もない。刺激がなく、常に頭に靄がかかっているような、空虚。そしてそんな人生は表情に現れる。頼りない顔つきだ。

まあでもどうしようもない。これが現実なのだ。俺が負け続けるおかげで誰かが勝ち続け幸せになれていると自分を慰めるべきだろうか?そんなのは絶対に嫌だ。勝ちグセがついている人間と、負けグセがついている人間で何が違うのだろうか。やはり、生まれ持った能力なのだろう。有能な親から生まれれば自然と勝利を収め、勝ち続けられるだろう。そして無能から親に生まれれば……。

人間は動物である以上、能力の差ができてしまうのはもう仕方ない。自分のための世界じゃないのだから、人生終了時にあなたは0勝1646546165敗。勝率0%です。と視界にウインドウが出てしまっても別に不思議じゃない。

そんな運命の元に生まれてしまったとしても、このままは嫌だ。負け癖がついている人間に一番必要なのは、負け続ける勇気。これ以上負けを増やさないような生き方には、万が一にも勝利はない。しかし負け続けても勝負を続ければ、奇跡を拾えるかもしれない。何度も心が折れそうになっても、全てを投げ出したくなっても、負け続けるしかない。どうせすでに負けまくっているのだ。多少負けが更に増えたところで問題はないだろう。

まあ、そんな気概があれば負けグセなんてもっと前に払拭できている気がするのだが。となればもう頭を空っぽにして動くしか無いのかもしれない。それこそ、死んでも構わないと、死にものぐるいで。それがオスという戦うことを義務付けられた性別の宿命なのかもしれない。

シン・エヴァンゲリオン劇場版を見たらなんだか死にたくなった

公開日から遅れる事2日、やっと見に行くことができた。

感想を一言でいうと、

「前半は本当に自分はエヴァンゲリオンという作品の真の完結編を見ているのか。と不安になった」だ。

勿論作中では14年も経ってるし、世界が滅茶苦茶になってしまったのだからあのような状態になってしまうことは不思議でもなんでもない。目を奪われてしまう作画の良さ、そして展開には自然と引き込まれてしまった。それでも、間違いなく自分が見ているのは『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』だと頭でわかっていても、目の前で繰り広げられる展開には困惑せずにはいられなかった。

そんな事を思ってしまったのは、自分には想像のできない展開だったというのもあるが、エヴァンゲリオンがこれで本当に終わりということが信じられなかったからだろう。おそらくシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇でエヴァンゲリオンという作品はこれでシンの終わりを迎えたはずだ。ラストシーンを見る限り、これ以上何か続編があったとしても蛇足にしかならないと思う。

それなのにも関わらず、まだシン・エヴァンゲリオン劇場版の続きがあるような幻覚を抱いてしまうのだ。不思議でたまらない。

所謂『旧シリーズ』はリアルタイムでは見ていないのだが、深夜はキッズ向けではなくなるキッズステーションで何度も見た。ちょっとエッチなシーンが流れた時に感じた気まずさ、そして言葉にうまくできない興奮を抱いた時の感覚は今でも思い出すことができる。そう、自分がエヴァンゲリオンという作品を認識したときにはすでに一旦はエヴァという作品は完結していたのだ。

それでも漫画版はまだ続いていたし、アニメージュの付録にエヴァのリマスター版のDVDがついてきたり、エヴァのゲームも発売されていたりと、この作品はすでに終わっているという感覚はなかった。なんというかドラゴンボールに近い感覚だった。

そして新劇場版が発表され、一作公開されるごとに何年も待つのを繰り返し、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』をもってついに本当に完結しててしまった。今でもやっぱり完結したという実感は相変わらずない。まあ、これからエヴァ関連コンテツが全く出ないということは流石にないだろう。エヴァンゲリオンという作品はドル箱だから。

だがエヴァンゲリオンという作品のストーリーはこれで終わりなんじゃないだろうか。庵野秀明監督も流石にエヴァンゲリオン以外のものを作っていきたいだろう。

 

確かに前半は、というか序盤は「本当に自分はエヴァンゲリオンという作品の真の完結編を見ているのか」と思ってしまったが、2013年でも2017年でもなく、新しい時代を告げる2021年の映画なんだなとつくづく思わせてくれる作品だった。重量感のある演出、アニメだからこそできるカメラワーク、何を食ったらこんなモノ思いつくのだろうと思わずにはいられないメカニックデザイン。そして、終盤のゲンドウの独白には胸を打たれた。自分も同じことを思っていたから。

3時間近い長編だが、終盤は「頼む終わらないでくれ……」と何度も思ってしまった。真っ白な画面に『終劇』と表示されたときは全身の力が抜ける感覚があった。再放送で見ていた世代の自分がそうなのだから、直撃世代の40代くらいの人はどんな感覚なのだろうか。

それにしても、ラストシーンはなんというか、君の名はを思い出さずにはいられなかった。声優が神木隆之介だからじゃなくて、演出でそんなふうに感じてしまった。

とりあえず後一回は見に行きたい。できれば女の子と。ああ、上映終了してしまう。

ステンレスは錆びにくいけど腕はすぐ錆びる

一時期は毎日のようにブログを書いていたが、最近ついついサボりがちになってしまったので無理矢理にでも書くことにする。ブログのような文章を書く能力は、少し使わないだけですぐに錆びついてしまう。これが怖い。

勿論別に書くことがないわけじゃないし、一日中ベッドの上で天井を見上げているような無味乾燥な毎日を送っているというわけでもない。楽しいことがあれば気分が高揚するし、思い通りに行かなくて落ち込むこともある。食欲に突き動かされ、ピザチーズをオリーブオイルで焼いただけのカロリーの暴力のような食べ物を食べてしまった時は罪悪感に苛まれた。とまあ、何かしら感情が動く日々を送ってはいる。

最近あったいいことと言えば、日曜日に新宿で見つけたこのチョーカー。

とてもオシャレだ。しかも以前欲しかったX万円するチョーカーとデザインが似ているのに値段は遥かに下だ。まさにお買い得

もうしばらくすれば暑くなってきてTシャツを着ることが増える。Tシャツのような服は襟がないこともあって首周りが寂しくなる。そこでこういうさりげないチョーカーをつけるととてもカッコいい。

昔の自分はチョーカーはおろか、腕時計すらすることがなかった。しかし今はオシャレして出かけるときは大体腕時計とバングルをつけている。どちらも銀でそこまで目立つようなデザインではないが、シンプルな服装にさりげないアクセサリーは嫌味すぎず、地味すぎず、カッコいい。

やっぱり見た目を変えるのはいいことだ。簡単にできる上に自信がつくし、自信がつくことで違うことに挑戦しようという勢いづけにもなる。今度は何を始めようか。とりあえず今はオシャレして女の子と遊びに行きたい。オタク映画を女の子と見に行って周りの一人で来てるオタクから敵意の視線を向けられたい

何だか虚しくなってきたので吐き出してみる

歯医者で歯をクリーニングしてもらった。自分の歯ってこんなに綺麗だったのかと驚愕するほどピカピカになり、この綺麗さをなるべく長く維持できるように頑張ろうと静かに決意した。

先生には「歯周病を意識したほうがいい年なので、歯磨きには気を使ってくださいね」と言われた。普段なるべく自分の年を気にしないようにしているようにしてるが、こんな事を言われると意識せずにはいられない。

今回の件もそうだが、最近自分の年を否応無しに意識せずにはいられない出来事が連続して起きている。

先週会社の面談があり、上司からは「頑張っているとは思うが、俺が期待しているほどではない」と言われた。オブラートに包まれている真意がすぐに伝わってくる。わざと頑張っていないのだが、そのようなことを言われるとやはり居心地が悪くなってきた。それを振り払うかのように苦笑を浮かべつつ、曖昧な言葉でその場を切り抜けた。しかしウソをつけない性格なので表情からは「極力働かずに金だけほしいんですよ~」という本音が漏れ出ていた気がする。

その後上司からは「お前より年下の人間が何人も昇格していくがなんとも思わないのか?」と「恋人とか、結婚考えたりしないのか?」と言われたが、前者は「全く思いません(本当にそう思っている)」、後者は「全く興味ありません(こっちも本当にそう思ってる)」と答えた。

確かに自分の年はいわゆる部下を持ったりと、手足から手足を動かす側に変わる、『働き盛り』なのだろう。そして大多数の人は自分より年下の人間が出世していくことに悔しさを感じるのかもしれないし、自分の年齢なら結婚のひとつでも考えるのかもしれない。しかし自分はどっちも心底どうでもいい。価値を全く感じない。

会社に限らず、抜きん出たければその分時間を費やす必要がある。会社で出世したければその分働かなければならない。そして当然だが、多く働いた分自分の時間がなくなる。仕事が好きでたまらないなら別にいいと思うが、帰って寝るような毎日を送ってる人を見ると「そんな人生に意味ある?」と思わずにはいられない。そんな生活にはどこにも『自分』がない。それでいいのだろうか。

自分はやはり、平日でも自分の時間が無いと絶対に無理だ。筋トレをしたり、好きな本を読んだり、小説を書いたりだとか、自分が自分でいられる事を我慢してまで働く理由が全くわからない。

しかしそこで1つの疑問が生じる。「それで、そんな人生に意味があるの?」

いや、ない。別に仕事に人生の大半を費やそうが何をしようが結局は死ぬ。そして何も残らない。

別に毎日のように遅くまで残って仕事している人も会社のために働いているわけではない。自分のために働いているのだ。沢山働くことで家族がいれば家族の生活環境を良くすることができるし、転職する際は役に立つ。きっと今の会社で自分より早く仕事を始めて、自分が仕事を終えるときもまだ仕事をしている人はそのような事を考えているのだ。

結局、そういうことだ。何度も自問自答して同じ答えを出してきた。今更な気もする。それでも、なんでそんなに頑張るんだろう。と思わずにはいられない。そしてそんな人達と比べて、言ってしまえば刹那的な、甘い自分が嫌になってくる。

それにしてもなんで生きるためにそんなことをしなきゃいけないのか。8時間働くだけでも苦痛なのに、毎日もっと働くなんて病気になってしまう。頭か体のどっちかが絶対におかしくなってしまう。

だけど仕方がない。この世は資本主義。弱い人間は強い人間に時間を差し出して金をもらうしかない。そして下に行けば行くほど生活は苦しくなる。だから多少頭か体が病もうとも、必死こいてなんとかして少しでも上に行くしか無い。

なんで生きてるんだろう。