親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

何もないだだっ広い空間を1人歩く

他人から悩みを話してもらえるというのは少し不謹慎かもしれないが、自分という存在を信頼してもらえている証拠なのでやはり嬉しく感じる。それと同時に、他人に自分ができることって思った以上にないんだなと無力感を抱かずにはいられない。

例えば相手の家の排水管が詰まっていて、自分が排水管を水道工事をすることができる資格があれば確かにそれを解決することはできるだろう。しかしそれは自分でなくても解決できるし、そもそもそれは悩みではない。

悩みというのは、AとBという選択肢があり、相手の主観的視点だとどちらにもメリットデメリットがあるためどちらにするか決められない状態。何かに困っていてそれを解消するための方法がそもそもない、もしくはあるけどその解決方法を行うのが怖い、勇気が出せない。そういったもののことを言うはずだ。

そしてそれらに対して自分の知識経験から「Aがいいんじゃない?」と言うことも、「やりたいと思ってるならやればいいじゃん」とアドバイスすることはできる。だが、結局それ以上のことはできない。相手もAの方がいいと分かってはいるけどAを選ぶことのデメリット、Aを選んで失敗してしまった場合の恐怖で迷っているかもしれない。そして相手もやればいい。と分かっている。だけど第一歩を踏み出せないから悩んでいるのだ。

結局、相手の悩みは相手が自分で解決するしかない。こちら側が無理やりAを選ばせたり、やれずにいることをさせることは相手に逆に悩みを増やしてしまう行動だ。親切心ではなく、迷惑行為でしか無い。

人間って思った以上に孤独なんだなと思ってしまう。悩んでいる人と触れ合って悩みを聞くことはできる。それで心の距離は縮まったとしても、どうしても通り抜けられない壁は残ってしまう。それでもやはり誰かと話をして感情の共有ができたときの瞬間は何も無い広大な空間を一人歩き続けていたら誰かと出会えたときのような、そんな感覚がある。

あまあま

どんな時も常に謙虚が一番だ。調子に乗ったら最後、足元を掬われて奈落の底へまっしぐらだ。

すごく今更なのだが、どうやら仕事でも恋愛でも自分は調子に乗りやすいようだ。『勝って兜の緒を締めよ』というが、勝ってもいないのに兜を脱いでしまい、斬り殺されてしまう。何度目だよ馬鹿野郎っ!

仕事で調子に乗ってしまうとしょうもないミスをやらかしてしまい自己肯定感がボロボロになってしまうし、恋愛で調子に乗ってると相手にそれを見透かされて愛想を尽かされてしまう。やんなっちゃうよ。

かといって常に神経を尖らせていても疲れてしまうし、時と場合によっては勢いで突き進んだほうがいいこともある。難しい。

じゃあどうすればいいのか。『調子に乗る』にはいい意味と悪い意味の二つの意味がある。つまり、いい意味で調子に乗りつつ、悪い意味では調子に乗らないようにするのが一番。つまり、程々に。いや、そんなことは誰でも分かってるよ。それが難しいから困ってると言うのに。

隣を歩いてくれる女の子がほしくて頭の中が女の子という概念でいっぱいになるバレンタイン二日前の夜。

理想的な女の子

男オタクというのは女オタクと付き合いたがるものらしい。だからこそ女オタオタなんてスラングが生まれるくらいだし、所謂オタク街コンは男は10,000円に近い参加費に対して女性は1000円以下という狂った金額設定でも男の方は完売してしまう。足元を見られすぎている。

アニメコン【アニメ・マンガ好きの集まる街コン☆マッチングゲームあり!一人参加・恋活・友達作り歓迎/完全着席形式/感染対策済み】 (千葉県/船橋市) | 街コンジャパン-全国の街コン公式サイト-

ちなみにこの手の街コンは本当にやめといたほうがいい。恥ずかしながら何度か参加したことがあるが、男女比が偏りすぎてまるで話ができなかったり、『20分ごとに席替えができます』と謳っているにも関わらず男女合わせて6人しか集まらず、時間いっぱい同じメンツで話し続けたということもある。おまけにその時はイベント終了1時間前にドリンクのラストオーダーだった上、当時は今ほどトーク力がなかったせいで終盤はお通夜になってしまった。

そんな話はさておき、勿論自分自身もやはり女オタクと付き合いたいという思いがある。オタク気質の女の子と仲良くなるためにその子が好きなコンテンツに手を出すという軟派な事をしてしまったことすらある。もちろん大失敗でした。

しかし冷静に考えてみると女性向けの作品を好む女オタクは生態系が全く違うだろうし、かなりレアな存在である男性向けを好きな女オタクも男オタクと同じような楽しみ方をしているとは限らない。エロゲ好きだと言うから話を聞いてみたらクロックアップ作品のようなグロテスクなものが大好きだったりとか。

そう、同じオタクだからといって仲良くなれるとは限らない。例えばラーメンが好きだからと言ってとんこつラーメンが好きな人と塩ラーメンが好きな人では仲良くなれるかと言われると怪しいだろう。

むしろ普通の女の子の方がいいんじゃないだろうか。世の中には意外と『自分自身には特に趣味がなくて、友達の趣味に付き合う女の子』が存在している。そういう子の方が自分の趣味にも楽しく付き合ってくれるのではないだろうか。「これ面白いよ」と布教したらすぐに読んだり見てくたりするのではないだろうか。こっちのほうがいいじゃん!

しかし問題がひとつある。そういう女の子と知り合う手段が中々ないことだ。人生そんなに甘くない。

つまらなくなりましたね

この前「を水さん最近ブログ記事つまんなくなりましたね!」と言われてしまった。彼いわく、まだ自分が病んでいた頃の尖った記事が好きだったらしい(この記事はよかったと言ってたけど)。

まあ自分でも良く言えばおとなしくなった、悪く言えば無難すぎる記事ばかりになってしまったと思っている。昔の記事の方が読んでいて感情に訴えかけるものが書けていたような気もする。だがそれはやはりネガティブな記事ばかりだからだ。

ネガティブな感情というものは強力だ。大きく心が動かされる。ネガティブな記事に込められているネガティブな力をそのまま受け止めれば、落ち込んだり嫌な気分になったりする。文字通り、感動するのだ。バッドエンドの作品がずっと頭に残り続けるのもそいういうことだろう。

メンタルが病んでいる人は頭の中でネガティブな感情が強い勢いで飛び回っている。それをそのまま文章にぶつけると、その人のネガティブな感情が閉じ込められた負のオーラが放たれた記事が簡単に完成してしまう。そして読んだ人はそのネガティブな感情に共感し「分かる」と思ったり、「面白い」と思うのだ。

しかし残念ながら今の自分はそんな感情が殆どない。昔の自分の頭の中は常に大嵐が吹き荒れていたが、今は平穏状態だ。そんな状態だから力がまずないし、そんな精神状態ではポジティブな記事ばかりになってしまう。

勿論ポジティブな感情でも心が動くには動くが、ネガティブな感情と比べて刺激が弱い。それにネガティブになるのはただ坂道を転がり落ちるようなものだが、ポジティブになるのは坂道を巨大な球を転がしながら登っていくようなものだ。結構努力が必要なのだ。ポジティブな記事を読んですぐにポジティブになるのは割と難しい。逆は簡単だけど。

ただ、Twitterで面白いツイートをしている人はたいてい病んでいる印象がある。一応自分も創作をしている身なので多少病んでる方がいいのかもしれないが、やっぱり病んでるのは辛いので今のまま面白い話を作れるといいのだが。

 

分かり(理解り)合いたい

最近はもうずっと在宅勤務をしていることもあり、上司とこまめにSlackで通話をすることが増えた。電話は苦手だが、業務的なやり取りをするだけなら相手の顔が見えない分言いづらいことも逆に言いやすくなるので好きだ。

在宅勤務についてのブログ記事を見ると『雑談が減った』という一文をよく見かける。なのでなるべく少しでも雑談を振るようにしている。比較的ノリのいい上司なので、話に乗ってくれるのはありがたい。

今の上司とはもう結構長いこと同じ仕事をしている。業務的な役割も違うというのもあるかもしれないが、今の仕事の先に何を求めているか、日々意識していることは何か等、つくづく向いている方向が違うと感じる。

まあ上司も自分もホモ・サピエンスだとはいえ違う個体だから、同じ仕事をしていても向いている方向が違っているのは当然のことだ。その辺にいる幸せそうなカップルや、夫婦でも相手のこと見てはいても、きっと向かっている方向は違うのだろう。それで喧嘩になったり破局したりするのだ。

なぜこんな事を思うようになったのかと言うと、昔は一人でいるのが好きだった。だが今は以前と比べてだいぶ社交的になった。おかげで最近様々な人と関わるようになったことによりそんなことを思うようになった。

そもそも昔の自分は他人の事を理解するということを放置していた。乱暴な言い方をすると、自分と同じような体の作りをした勝手に動き喋る物体くらいにしか思っていなかった。

そんな風に思っていた自分だが、以前より人と深く関わることも増え、今は積極的に他人という存在を知りたいと思っている。突き詰めてしまえば、他人の心を読みたい。他人の心オタクになっているのかもしれない。

なぜそんなことを思うのか。基本的に他人は何を考えているか分からない。よく分からないものは怖い。だからその恐怖を解消するために知りたいのだ。そして昔より他人に嫌われることは怖くなくなったとはいえ、他人から「こいつわかってないなー」と思われるのはしゃくだ。だから他人の心を読めるようになりたい。

とは言ったものの、そんな物は無理だ。そんなことができたら争いなんてとうの昔になくなっている。読めたところでできることはたかが知れている。相手の事をコントロールすることはできない。できたとしてもせいぜい北風と太陽の太陽くらいの事くらいだろう。

ここまでの記事を見返してみて、一人でいることが好きだった自分とそこまで大きく変わっていないのではないかと思った。それでも他人と関わることが以前より好きになったのは他人と分かり合えた時の嬉しさや、感情を共有できる楽しさを知ったからかもしれない。だが他人という『よく分からないもの』に対する恐怖心は多少減ったくらいな気がする。

世の中には自分よりはるかにコミュニケーションが上手い人はいくらでもいるが、そういう人たちはどんなふうに思っているのだろう。他人と完全に理解し合う、同じ方向を向くことは無理だと諦めているのか、そんなこと気にしていないのか。一体どうなのだろう。

オリジナル

誰かの特別な存在になりてえなあ。そんなことを一日一回は考えてしまう。

女の子を追っかけ回すのは言うに及ばず、小説を書くのもブログを書くのも突き詰めてしまえばそこに行き着く。自分にしか出せない表現で自分を好きになってもらいたいからなんだと思う。

だけどやっぱりその道は険しい。小説のような文章に限った話ではなく、自分らしさを出そうとしても手癖でやったほうがまだマシなんじゃ?と思うような結果になるので、結局は先人が作り上げたものを覚えて行くことになる。

でもそれって何かの下位互換になるだけなんじゃ?って思ってしまう。もちろん、最初は下位互換であることを受け入れるしか無い。下位互換と書くと聞こえは悪いが、つまり基礎力を高めている段階なのだ。基礎がしっかりしてない段階で自分らしさを出すと大体爆死する。爆死しない人はとっくの昔に特別な存在になれているはずだ。

そして自分から見て『特別な存在』に見えている人も特別な部分はまさに氷山の一角で、実際はコツコツと積み重ねてきた基礎があるはずだ。だから自分も今は『誰かの劣化コピー』であることを受け入れる雌伏の時なのだ。

「オリジナルな存在になりたい」と思っている事自体が尊いことなのだと信じて、今日も失敗して落ち込んだけど頑張ろう。

 

その不満、つぶやく前に

ネガツイしないようにしてしばらく経った。昔は息をするようにネガツイをしていたのだが、今はネガティブな事があっても別につぶやきたいとも思わなくなった。その代わり楽しいことや、前向きなことは息をするようにツイートするようになった。

やはり精神的にこっちの方が断然いい。ネガティブなことで頭がいっぱいになってどうしようもなくなったら、ブログで記事にすることにしている。どちらも結局はネットに公開していることには変わりないのだが、ネガツイをすると余計憂鬱になり、記事にすると逆に楽になる。

Twitterは名の通り『つぶやく』サービスだ。そしてネガツイをする時は大体頭の中にある思考・感情をそのまま文字にしてしまう。つまりやってることは頭の中でネガティブな感情を反芻しているときと何だ変わらない。その結果、余計憂鬱になってしまうのだ。

対してブログにする場合は、頭の中のものをそのまま記事にするわけには行かない。頭の中にあるものを、読める文章にしなければならない。その過程で自分の思考・感情を客観的に見ることが出来る。

そんなことをしているといつの間にか「あれ、この悩みってここまで思い詰めるほど別に大したことじゃなくね?」と思うようになり、たいていは楽な気分になる。しかももしかしたら似たような悩みを持っている人の助けになることがあるかもしれない。

そう、まさにこれだ。

kotobayasan.com

最近やたら不満を呟いてる人をTLで見かけるのでこうして記事にしてみることにした。不満や不安、ブログにしてみるの結構オススメです。すっきりするし、自分を知ることも出来るし、誰かのためになるかもしれない。いいことしかありません。