親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

なんともままならない

怒りという感情は厄介だ。まず怒りという感情は記憶に残りやすい。5年前に携帯電話販売の仕事をしていた時に客に理不尽な事を言われてブチ切れたときの感情は今でも覚えている。思い出すだけで表情が曇り、胃は誰かに掴まれているかのように痛くなってくる。この前人にその話をした時、思わず泣きそうになってしまったくらいだ。

だから怒りを感じた時はSNSに投稿したりだとか記録に残るようなことはせず、どんな方法を使ってもいいからさっさと水に流してしまったほうがいい。

だがそうやって感情が動いている時、生きてるって感じがしてしまうのだから困りものだ。縁側で庭を眺めながら緑茶をのんびり飲んでいるかのような平穏な毎日の方が日々幸せを感じられるとは思うのだが、人間とは面倒な生物だ。

欲望の豚

食事を終え満腹感はあるがまだ若干腹に余裕がある時、ついもう少し食べたいと思ってしまう。『腹八分目に医者いらず』というし、こういうときはやめておいたほうがいい。だが、つい食べてしまう。そして後悔する。食べすぎてしまいなんだか気持ち悪くなったり、体重計に乗って自分の体重を見て自分の過去の過ちを無かった事にしたくなったり。

最近欲望に連戦連敗だ。しかし、今日は違う。もう少し食べようと思った瞬間「もしこのまま食べてしまったらどうなるか」を想像してみた。大した頭を使うことなく後悔する自分の姿が想像できた。だが食べたい。しかし想像の中の自分が少し前の自分に対して激怒している……。

何とか食べずに我慢することができた。食欲を我慢したことで胸の奥に若干不快感が残ってしまった。その代わりその不快感よりはるかに小さいものだが、少しずつ体に染み渡っていくような達成感があった。気持ちいい。自己肯定感も上がった。

欲望のままに生きるのは気持ちいい。だがその後に大きな後悔の念に苦しむことになる。我慢して得られる達成感が与えてくれる快感は欲望に従った場合と比べて微々たるものだが、青空のもとで風を浴びているような心地よさがある。今日は欲望という魔物に勝つことができた。明日も勝とう。そして勝ち続ければ楽に勝てるようになるのだ。

 

欠点はそうかんたんに治らない

アイデンティティという言葉がある。大抵は『これが無くなってしまったら自分ではなくなってしまう事・もの』に対して使われている印象がある。

個人的に今までアイデンティティになるものは『自分が得意なもの』や『自分が好きなこと』のようなポジティブなものが当てはまると思っていた。だが改めて「自分のアイデンティティってなんだろう」と考えてみたらポジティブなものばかりでは無いことに気がついた。

まず前提として完璧な人間は存在しない。したがって当然自分にも欠点がある。むしろ欠点多すぎじゃね?と思っている。そして欠点は改善していかなければならないと思っている。だが、もし改善されてしまったら自分ではなくなってしまうのではないかと思うような欠点もある。だからといってその欠点を受け入れているわけではない。その欠点は何度も自分を苦しめ、自己肯定感にダメージを与え続けてきた。

しかしその欠点が無くなってしまったら最後、今までの自分ではなくなってしまう予感があるのだ。その欠点は例えるならば、物心ついたころからある『できもの』のようなものなのかもしれない。なんでこんなものあるんだろう。嫌だなあ。嫌だなあ。と思いながらも時たまその『できもの』に触れて、いつものように『できもの』があることに安心する。

と、ここまで書いて思ったのだが本当に『できもの』のようなものならば、欠点を改善したところで別に自分ではなくなったりはしないのかもしれない。『できもの』が無くなった直後はどこか寂しさを感じるかもしれないが、しばらく経ったら無くなってよかったときっと思うのだろう。

 

このような記事を書いていたら高校生の頃に好きだった女の子の事を思い出した。彼女は顔に大きなホクロがあった。そして高校卒業後にメールで病院でホクロを取ったという話をされたことを少し前の事のように覚えている。まあ、気がつけばメールアドレスを変えられて音信不通になってしまい、ホクロを取った彼女の顔を見ることは二度と無かったのだが。

おっさんSeventeen

最寄り駅を出て家に向かう途中、反対側からおっさん3人組が歩いてきた。おっさんは別に珍しくもなんともないし、3人組でも珍しくないが、そのおっさんは何と1つの傘に3人で入っていた。なんともシュールな光景だ。

しかもそのおっさんの表情がとても印象的だった。なんとも楽しそうな表情をしていたのだ。まるでバカなことをやって盛り上がっている男子中学生のようだった。

正直言って最初そのおっさん3人組を見かけたときは「うわっ」と思ってしまったのだが、心底楽しそうにしているおっさんの表情を見ていたら色々と考えてしまった。

『おっさん』という言葉にはどこか疲れているようなイメージがある。電車で見かけるおっさんもみんな疲れている表情をしている気がする。多分。

しかし、あのおっさん3人組には疲れているような印象は微塵も感じなかった。「おっさんの何がダメなんだ?おっさんは楽しいぞ!」と言わんばかりの表情だった。

年齢も、顔つきもおっさんになって、正直うれしいことは何一つない。だが、それでもおっさんは思いっきりおっさんを楽しんで将来おっさんになる人達に「おっさんは楽しいぞ!安心しておっさんになれ!」と背中で語る義務があるのではないか。と思った。そんなことを考えていたらおっさんも悪くないな。と思えてきた。何事も『物は考えよう』だ。おっさんを楽しもう。

 

 

常時オンライン接続状態生活で生きていく

普段筋トレをするときは何かの動画を流している。もともと無音があまり好きではなかったというのもある。だが今日は何も動画を流さず無音で、Twitterを開いたりすることなく黙々と筋トレをしていた。何も流さずに筋トレをしていると、意識は内側に向く。仕事のこと。書いている小説のこと。ブログのこと。将来のこと。女の子のこと。

筋トレが終わった後、頭の中が少し整理されたような気がした。筋トレ中に小説のアイディアもいくつか思いついた。

最近このような『オフライン状態』の時間があまり取れていないことに気がついた。スキマ時間があればTwitterやニュースサイトなどをチェックしてしまうし、食事中もyoutubeで何か動画を見てしまう。

情報を仕入れることは大事だ。しかし、おそらく人間の脳はこのようなある意味常時オンライン接続状態に耐えられるようにできていない。

https://heisei-ikai.or.jp/column/jyoho-kata/

もちろん、完全にシャットアウトしてしまうと現代社会で生きていくことはできないので毎日ある程度はネットを使う必要はあるだろう。だが、現実の人間や自分の内面と向き合う時間を作ることは大事だ。ネットは便利だし楽しいが、自分という存在はこの現実世界に存在する生身の人間だということを忘れず、上手くこの情報過多社会を生きていこうと改めて思った一日だった。

しかし、一人暮らしをしていると寂しさからついTwitterを開いてしまう。俺と付き合ってくれる女のk

新たな変化

在宅勤務が終わって2週間。在宅勤務をしている間にほぼ常に思っていたことがある。

「寂しい……」

もともと友達も恋人もおらず、たまに人と会う時は基本的にTwitterで知り合った人という状態のため、在宅勤務をしている間に直接人と話す機会はスーパーの店員さんや、ヤマト運輸の配達員さんくらいだった(マジで)

そんな状態だったためか、出社するようになってから変化が起きた。気がつけば会社の人と業務のことで話すついでに、軽く雑談をするようになっていた。打ち合わせをするときも以前より発言が多くなった。それらを無意識のうちにやっていた。無意識のうちにやっていることに気づいた時、自分がやっている事に内心驚いていた。

そうなったおかげで以前より格段に仕事がやりやすくなった。「俺ってけっこうやれるじゃん!」と自己肯定感が上がった。

やはり大きな変化があると何かに気づくことが出来たり、成長することができるのだろう。人間は変化をすることを恐れるが、変化を受け入れていけば新しい事を知ることが出来て自分の世界が広がっていくのだ。

 

 

どうしようもないけど、まあこんなもんだろう

この世はグロテスク過ぎる。

子供の頃、世界はもっときれいだと思っていた。しかし大人になるに従ってこの世ある種の美しさを感じるまでにグロテスクな事を知った。現代はインターネットなどを始めとした情報技術により大量の情報を仕入れることが容易になっていることがそれを後押ししている。

だが子供の頃は世界はきれいだと思っていられた事自体はそれはそれで幸せだったのかもしれない。子供の頃からこの世のグロテスクさを知って絶望してしまった人は世の中に沢山いるだろう。

しかし子供の頃にきれいだと思っていたこの世がうんざりするまでにグロテスクだと知ってしまった今、絶望感で生きていくのがイヤになってしまうこともある。それでも、生物としての死を回避しようとする本能、様々な快楽を与えてくれるコンテンツのおかげでなんとかこのグロテスクなこの世に留まりつづけていられる。

とはいったもののそれは『仕方ないから』留まり続けていられるだけで、納得は出来ていない。もういやだ!ふざけるな!と怒りをぶちまけたくてたまらなくなってくる。もちろん思うだけで何もしない。そしてその衝動はこの世に溢れている快楽を与えてくれるコンテンツで誤魔化す。誤魔化すと割となんとか生きていける。しかしあくまで誤魔化せているだけなので定期的に誤魔化さなければならない。

そしてこうやってこの世に絶望しながらも快楽で誤魔化しているうちにお迎えがくるのだろう。アホくさ。何だこれは。

それでも無に帰す恐怖より、グロテスクで絶望的なこの世でたまに快楽を摂取していく毎日の方がまだマシと思えてしまうのでこれからも寿命が尽きるまで生きていくのだろう。