親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

分かり(理解り)合いたい

最近はもうずっと在宅勤務をしていることもあり、上司とこまめにSlackで通話をすることが増えた。電話は苦手だが、業務的なやり取りをするだけなら相手の顔が見えない分言いづらいことも逆に言いやすくなるので好きだ。

在宅勤務についてのブログ記事を見ると『雑談が減った』という一文をよく見かける。なのでなるべく少しでも雑談を振るようにしている。比較的ノリのいい上司なので、話に乗ってくれるのはありがたい。

今の上司とはもう結構長いこと同じ仕事をしている。業務的な役割も違うというのもあるかもしれないが、今の仕事の先に何を求めているか、日々意識していることは何か等、つくづく向いている方向が違うと感じる。

まあ上司も自分もホモ・サピエンスだとはいえ違う個体だから、同じ仕事をしていても向いている方向が違っているのは当然のことだ。その辺にいる幸せそうなカップルや、夫婦でも相手のこと見てはいても、きっと向かっている方向は違うのだろう。それで喧嘩になったり破局したりするのだ。

なぜこんな事を思うようになったのかと言うと、昔は一人でいるのが好きだった。だが今は以前と比べてだいぶ社交的になった。おかげで最近様々な人と関わるようになったことによりそんなことを思うようになった。

そもそも昔の自分は他人の事を理解するということを放置していた。乱暴な言い方をすると、自分と同じような体の作りをした勝手に動き喋る物体くらいにしか思っていなかった。

そんな風に思っていた自分だが、以前より人と深く関わることも増え、今は積極的に他人という存在を知りたいと思っている。突き詰めてしまえば、他人の心を読みたい。他人の心オタクになっているのかもしれない。

なぜそんなことを思うのか。基本的に他人は何を考えているか分からない。よく分からないものは怖い。だからその恐怖を解消するために知りたいのだ。そして昔より他人に嫌われることは怖くなくなったとはいえ、他人から「こいつわかってないなー」と思われるのはしゃくだ。だから他人の心を読めるようになりたい。

とは言ったものの、そんな物は無理だ。そんなことができたら争いなんてとうの昔になくなっている。読めたところでできることはたかが知れている。相手の事をコントロールすることはできない。できたとしてもせいぜい北風と太陽の太陽くらいの事くらいだろう。

ここまでの記事を見返してみて、一人でいることが好きだった自分とそこまで大きく変わっていないのではないかと思った。それでも他人と関わることが以前より好きになったのは他人と分かり合えた時の嬉しさや、感情を共有できる楽しさを知ったからかもしれない。だが他人という『よく分からないもの』に対する恐怖心は多少減ったくらいな気がする。

世の中には自分よりはるかにコミュニケーションが上手い人はいくらでもいるが、そういう人たちはどんなふうに思っているのだろう。他人と完全に理解し合う、同じ方向を向くことは無理だと諦めているのか、そんなこと気にしていないのか。一体どうなのだろう。

オリジナル

誰かの特別な存在になりてえなあ。そんなことを一日一回は考えてしまう。

女の子を追っかけ回すのは言うに及ばず、小説を書くのもブログを書くのも突き詰めてしまえばそこに行き着く。自分にしか出せない表現で自分を好きになってもらいたいからなんだと思う。

だけどやっぱりその道は険しい。小説のような文章に限った話ではなく、自分らしさを出そうとしても手癖でやったほうがまだマシなんじゃ?と思うような結果になるので、結局は先人が作り上げたものを覚えて行くことになる。

でもそれって何かの下位互換になるだけなんじゃ?って思ってしまう。もちろん、最初は下位互換であることを受け入れるしか無い。下位互換と書くと聞こえは悪いが、つまり基礎力を高めている段階なのだ。基礎がしっかりしてない段階で自分らしさを出すと大体爆死する。爆死しない人はとっくの昔に特別な存在になれているはずだ。

そして自分から見て『特別な存在』に見えている人も特別な部分はまさに氷山の一角で、実際はコツコツと積み重ねてきた基礎があるはずだ。だから自分も今は『誰かの劣化コピー』であることを受け入れる雌伏の時なのだ。

「オリジナルな存在になりたい」と思っている事自体が尊いことなのだと信じて、今日も失敗して落ち込んだけど頑張ろう。

 

その不満、つぶやく前に

ネガツイしないようにしてしばらく経った。昔は息をするようにネガツイをしていたのだが、今はネガティブな事があっても別につぶやきたいとも思わなくなった。その代わり楽しいことや、前向きなことは息をするようにツイートするようになった。

やはり精神的にこっちの方が断然いい。ネガティブなことで頭がいっぱいになってどうしようもなくなったら、ブログで記事にすることにしている。どちらも結局はネットに公開していることには変わりないのだが、ネガツイをすると余計憂鬱になり、記事にすると逆に楽になる。

Twitterは名の通り『つぶやく』サービスだ。そしてネガツイをする時は大体頭の中にある思考・感情をそのまま文字にしてしまう。つまりやってることは頭の中でネガティブな感情を反芻しているときと何だ変わらない。その結果、余計憂鬱になってしまうのだ。

対してブログにする場合は、頭の中のものをそのまま記事にするわけには行かない。頭の中にあるものを、読める文章にしなければならない。その過程で自分の思考・感情を客観的に見ることが出来る。

そんなことをしているといつの間にか「あれ、この悩みってここまで思い詰めるほど別に大したことじゃなくね?」と思うようになり、たいていは楽な気分になる。しかももしかしたら似たような悩みを持っている人の助けになることがあるかもしれない。

そう、まさにこれだ。

kotobayasan.com

最近やたら不満を呟いてる人をTLで見かけるのでこうして記事にしてみることにした。不満や不安、ブログにしてみるの結構オススメです。すっきりするし、自分を知ることも出来るし、誰かのためになるかもしれない。いいことしかありません。

そんなマゾヒスティックなことはやめよう

インターネットの海を漂っていると、様々なコンテンツが流れてくる。楽しいコンテンツもあるが、それと同じくらい見出しだけで見たら絶対イヤな気分になると分かってしまうコンテンツも流れてくる。政治、某ウイルスの話題、誰かの不祥事、性差、孤独死、理解のある彼くん……。見出しを見た瞬間は当然見るのをやめようと思うのだが、結局見てしまう。そして見終えた後は後悔の念に苛まれる。

冷静に考えると、こんなしょうもないもの見たって意味がないどころかストレスは溜まるし時間を無駄に使ってしまうので、見れば見るほど損だ。それでももしかしたら「新しい情報があるかも……」と情けない理由をつけて見てしまう。だが仮に新しい情報があったとしても、いい気持ちになることはないだろう。期待値は常にマイナスだ。

それでもつい見てしまうのはやはり嫌な気分になる、つまり感情が動くってのは娯楽なのだなとつくづく思う。しかも中毒性がある。Twitterで怒ってばかりの人はいつの間にか怒り中毒になってしまっているのだ。

そしてこの手のものは即座に感情が動く。映画や小説でも感情が動くことがあるが、どうしても感情が動くまでに時間がかかるし、腰を据える必要がある。だからまるで感情のストロング系チューハイみたいなこの虚無についつい手を出してしまうのだろう。むしろストロング系チューハイより気軽に摂取できてしまうのが余計たちが悪い。見ないほうがいい!間違いなく!

とは言ったものの、見ないようにしよう。と思うと余計見たくなってしまうのだ。だから別方向で対策をしていくのがいい気がする。この手のものを完全に頭から追い出してしまうのだ。大切な人と、友人と楽しいことを話そう。好きな本を読もう。趣味に精を出そう。SNSはほどほどにしよう。楽しくて精神的にも肉体的にもいいことならなんでもいい。

というわけでもないが、大切な人募集中です。

創作するようになって気づいた一つの変化

ふとした瞬間にメンタルがさらに強くなっていたことに気づいた。

当然嫌なことがあればイラっとするし、辛いことがあれば落ち込む。この前はあまりにも腹が立ったせいで、帰り道に深夜で人がいないのをいいことに「ふざけるな!!」と大声で叫んでしまった。だけど、それで終わる。その後に延々と引きずったりはしない。昔の自分ならばTwitterでメンヘラツイートをしたり、ひたすら自分を責めたり、辛さを頭の中で反芻するというドMな行動を取ったりと、精神的リストカットのような事をするのが常だった。

だけど今はどれもやろうと思わない。やったら体にも頭にも悪いことは分かってるし。おまけに依存性がある。

おそらく今のメンタルを獲得したのは、去年の後半に開き直るようにしたこともあるが、小説を書くようになったのが大きい気がする。苛ついた時、昔好きだった人に『いなかったこと扱い』された時など、どれもまあ精神ダメージは受けるものの、その後に、小説い使うために今の自分の体はどういう状態かに意識を向けるようになった。どこかが苦しいか、どこかが痛いか、例えるならばどんな気分か……等。

そんなことをしていると、自分を客観的に見ることが出来る。当然感情が負の方向に動くのは嫌だが、知見が貯まるので「よっしゃ来い!」くらいに思えるようになってきた。流石に障害が残ったり、重い病気になるのは勘弁して欲しいが、多少嫌な目に合うくらいならまあ別にいい。

最近はそんな感じで過ごしているので、毎日が割と楽しい。別に嫌なことが減ったわけじゃない。ただ、負の感情を上手く調理できるようになった。

まあ、今の所そこまで酷い目に遭ったりはしていないので運がいいだけかもしれない。本当に追い詰められたときに今の調子でいられるかは分からない。だけど、昔の自分ならばメンタルがズタズタになるような状況に置かれても、今の自分なら何とか踏ん張れる。それくらいの自信はある。

人生にもセーブロード機能がほしいよね

やりたいこと、やったほうがいいことがいっぱいあるのに、何もしたくない。そんな日もある。

なんで今日はこうなんだろうなと思ったら、これからの人生においてどの選択肢を選ぶか決められずに放置しているものがいくつかあるからだ。このいわゆる『あとでしよう』は脳に悪影響を与える。生産性や、集中力の低下。そう、今だ。

この選択肢も二者択一ならまだいい。しかし今回の場合はAとBとCという選択肢があって、さらにその先にA-1、A-2、A-3とさらに細かく枝分かれしているような状態だ。正直言って決めるのが怖い。

やっぱり人間失敗したくない。可能ならば一番良いものを選びたいし、もしかしたら決めずにいたことで最高のDという選択肢が現れる可能性もある。そんなことを考えてしまうとズルズルと後へ後へと回してしまうのだ。

勿論、失敗しないなんて無理だし、最高のDという選択肢が現れるかどうかも分からない。大事なのは、選んだ選択肢をより良くすることだけだ。

まあ、そんなことは分かってるんだけど、やっぱり可能な限り吟味した上で決めたいよね。

そもそも『自分』って何だろう

最近Twitterを開くと『某映画のチケット』関係のツイートを見かけない日は無くなってしまった。

その『某映画のチケット』に踊らされてしまった不幸な人のnoteを見た瞬間、「うわぁ、バカだなぁ。俺ならこんなのに騙されたりしないのに」と一瞬思ってしまった。しかし、自分も今思うと過去に「なぜオレはあんな無駄な時間(と金)を……」と思うような事を何度もしていたことを思い出してその思考を閉じた。

今回の場合は「自分が似たような場面に遭遇した場合、どうすれば騙されずに済むだろうか」と考えることが理想だろう。つい他人を見下して自分という存在の価値を相対的に上げたくなってしまうが、それはあまり意味のある行動とは思えない。

それにしても『某映画のチケット』もそうだが、うまい商売だと思う。人間誰だって『自分じゃない自分』になりたい。本屋の自己啓発コーナーを覗くと、『今の自分を変える』と謳っている本をすぐに見つけることが出来る。それだけ、人間誰もが変わりたがっているということだ。

自分も自分じゃない自分になりたい。だが、最近はどちらかと言えばプロゲーマーのウメハラが言っているような『(昨日の自分より)1日ひとつだけ、強くなる』という方向性で行くことにしている。

おそらく、他人になるのは難しいというか、無理だ。仮に成功した人のやり方を完コピできたとして、自分とは真逆のことを日常的にやっているかもしれない。それは間違いなくストレスがたまる。何とかストレスを乗り越えて完コピできたとしても、「これが本当になりたかった他人なのか?」と自問自答したくなってしまうだろう。

だから他人になろうとするよりは、自分の価値観に合っている他人のいいところをつまみ食いして、今の自分が自分1.0.0なら明日は自分1.0.01になろう。くらいの気持ちがいい。そしてそうやって少しずつ自分を強くしていく事を目的にする。完璧な存在になった自分を目標にしてしまうと、その間の自分は未完成な存在になってしまう。理想の自分と今の自分の差に絶望して、やる気をなくして続かなくなってしまう。

 

今の世の中は便利なもので、その辺にお誂え向きな"How to"が転がっている。それを真似れば、分かりやすく今の自分から変わることができる。

しかしそれを思考停止でまるでコピペするようにただ真似していては、そこからあえて外す。という行動は取れない。本当ならまず自分で考えてみることが大事だと思う。だけどそれはかけた時間の割に見返りがあるか分からない行動だし、そこら中に『正解っぽい』ものが転がっているから、わざわざ自分の頭で考えなくても。と思ってしまう。

しかしそうやっていると、自分がいつのまにか無くなってしまう。自分で考え、自分の言葉で話して、自分を確立していく時間が大事だよな。と思った夜だった。