親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

他人の死を受け入れられる場合と受け入れられない場合

今日まで実家に帰省していた。実家に規制している間、夜は昨年亡くなった祖母の部屋で寝ていた。ある程度両親が整理したとはいえ祖母がこの世に存在していた証がまだ部屋のあちこちに残っている。不思議な感覚があった。なぜこの部屋に祖母はいないのだろう?祖母の遺体を棺桶に入れた記憶もある。祖母の遺体を焼く前に鼻水や涙で顔が液体まみれになるほど大泣きした記憶もある。そしてその記憶を思い出したらまた涙が出てきた。間違いなく祖母は亡くなった。それなのになぜか「祖母はどこへいってしまったのだろう?」と考えてしまうほどに『祖母が亡くなった』という感覚がまるでない。

祖父が亡くなった時は割とすぐに祖父が亡くなったという事実を受け入れることができた。祖父が亡くなったのはもう10年以上前だ。大人になった自分の方が死というものをよく分かっているはずだ。それなのにもうすぐ祖母が亡くなって1年も経つのにまだ亡くなったという事実が受け入れられないのだろうか。理由はやはり実家を離れていたからだろう。祖父が亡くなったときはまだ実家に住んでいた。だから祖父が日に日に弱っていき、そして亡くなり、両親が手続きやらでドタバタしているのを目にしていた。そのようなものを目の当たりにしていれば信じられる信じられないに関わらず祖父が亡くなったという事実を受け入れざるを得なかった。

だが祖母の場合は違う。ある日両親から電話がかかってきて「お婆さんにガンが見つかった」と伝えられ、数カ月後に帰省したときはまだ祖母は元気だった。更に数カ月後に規制したときは信じられないほど弱った祖母の姿も目の当たりにしているが、祖母の最期は看取ることができずに母親から口頭で伝えられて初めて祖母が亡くなったのを知った。祖母が亡くなっていくまでを飛び飛びでしか見ることができなかった。それに祖母が亡くなったのは急だった。ガンが見つかってわずか数ヶ月だ。だから現実感が無く、未だに亡くなったのが信じられないのだろう。例えるならばテレビでしか見たことのない芸能人が亡くなったとニュースで見かけてもまるで現実感が湧かないように。

祖母についてこうなってしまったのも嫌だが、両親でもそうなってしまうのはもっと嫌だ。可能な限り両親に顔を見せよう。たまには用事もなく電話をかけてみよう。そう強く思った帰省だった。