親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

それでもやはりインターネットはやめられません

インターネットって人の暮らしを便利にしたけど、幸せにはしていないよな。とふと思った。

確かにインターネットがなければ自分は相変わらず人と上手く話せなかっただろうし、今でもサイズの合わないダサい服を着て外を出歩いていただろう。

それに、インターネットがなければ絶対に関わることがなかった人と知り合うことができた。それによって楽しい思いをすることができた。インターネットがない人生なんて、もう考えられない。

しかし、よく考えてみれば対人テクニックも、服のセンスも、試行錯誤の末に手に入れることはできただろうし、インターネットがなければ関わることがなかった人と絶対に知り合うことがなかったかと言えば、そうでもないだろう。知り合い、深く関わることができた人とは共通の趣味があったり、考え方に共通点があるのだ。確かに遠くに住んでいたり、生活圏が違っていてもインターネットのおかげで知り合うことができたことは間違いないが、同じ場所に居合わせれば仲良くなることはできたんじゃないかと思う。

加えて、簡単に情報を得ることができる、インターネットがなければ絶対に関わることがなかった人と話をすることができるようになったことは負の側面もある。

知らないまま死んでいったほうが良かったと思うようなことを知ってしまい、それが日常生活に影響を与えてしまったこともある。

インターネットという顔を合わさずにやりとりができるということは、言ってしまえば怒った相手から攻撃されるという危険を考慮せずに済むということだ。そうすると、人間の本性である攻撃性が姿を表す。相手にも人の心があることを忘れ、人格や尊厳を踏みにじるようなことを抵抗なく言えてしまう。恐ろしいことだ。そのような見るとしばらくは嫌な気分が続いてしまうような書き込みをインターネットでは毎日のように見かけてしまう。

彼ら彼女らは現実世界では別にそこまで凶暴ではないかもしれない。実際話をしてみたら、話しやすくて優しい人かもしれない。しかし、外に出さないだけでそのような一面があるのだろう。そして、当然インターネット上で攻撃性を顕にしてしまう人達だけがそのような一面を持っているのではなく、人間誰もが持っているのだと思う。そしてその攻撃性は、人類が地球上の覇者になる過程で獲得したもので、非難できるものではない。

人間は人間社会で生きていくために本来は体毛の薄いサルでしかないのに、理性という薄い服を着せられ、あたかもそれが服ではなく生まれつき生えている体毛のように振る舞うことを期待される。しかし実際はそんなことない。簡単に脱げてしまうのだ。その脱いでしまう場がインターネット上だったり、人によっては現実世界でも簡単に脱ぎ捨ててしまうのではないだろうか。

別に毎日何時間もツイッターを見る必要なんて無い。インターネットで仲良くなれる人を探す必要がないとは言わないが、公式のアカウントだけフォローしておいて必要なときだけ見ればいい。それ以外の時間は友達と過ごしたり、趣味に没頭すればいい。

もちろん、現実世界に居場所がない人にインターネットという世界は自分が輝ける場所になっていた一面は否定しない。それでもやはり、ふとした瞬間に人類にインターネットは早すぎると思ってしまう。

ありふれた独身男性の雑記

「プロフェッショナル 仕事の流儀」庵野秀明スペシャルをリアルタイムで見た。庵野秀明監督の特異さの断片を伺い知ることができる1時間15分だった。同時に庵野監督ほどの人間でも、ありふれた事で悩むのだなと(当たり前だけど)再認識することができた。

当然1時間15分で彼の事を全て知ることはできないし、見えないところで気が遠くなるほどの努力を積んできたことは想像に難くない。だが自分がどんなに頑張っても、今の記憶を持ったまま転生できたとしても、彼のような特別な人間にはなれないだろうな。と思わずにはいられなかった。

残念ながら自分はありふれた存在だ。普通、ではなく「そういう奴いるよね」と思われる多くの人間の期待を悪い意味でもいい意味でも応えた存在だ。自分みたいな人間は可視化されていないだけで、細かいところは違えど多くいるはずだ。

ツイッターで統計が掲載されている記事を共有して「自分は~じゃないから、当てはまらない」というような『自分はちょっと違いますよアピール』ツイートをしている人も、残念ながらありふれた存在だろう。逆に全部に当てはまってしまう人は違う意味で特別な存在だ。

最近自分の人生もちょっとずつ面白くなってきたと思っているのだが、別に特別な人生を送れているわけではないはずだ。『何者』かになりたくて何かを創っている人は数多くいるだろうし、全く女に縁のない人生だっけど気まぐれで女に気に入られてしまって調子に乗ったところが頂点。女は本命のところに行ってしまい、あっさり自分は捨てられてしまう。なんてこともありふれた話だ。

いけない。気がつけばまた女の話になってしまった。なるべく女の話はしたくないと思っているのに、気がつけばまた女の話になってしまう。だが、しょうがないのだ。結局男は女のために生きているのだ。我々のはるか昔のご先祖様に存在していたであろう、メスには興味なくオス同士で楽しそうにやっていた個体は絶滅してしまったのだから。

残ったオスはみんなメスが第一のような精鋭ばかりになってしまうのは仕方がない。たまに男だけで楽しそうにやっている女の影を感じさせないグループは、配られたカードがしょぼすぎて諦めてしまったか、運悪く母側の血に残り続けてしまった『メスに興味ない』を受け継いでしまった個体だろう。ご愁傷さまです。残念ながら俺も仲間です。

話がそれてしまったが、まあ、人間という存在に生まれてしまった以上『ありふれた』からはよほどのことがなければ逃れられないだろう。存在するかわからないが、人間より上の上位存在から見れば、どんな一芸に秀でた人間もありふれた存在になってしまうだろうし。

しかしまあ、特別という意味での『スペシャル』な存在になるのは難しいかもしれないが、今の自分より強くなることはできるはずだ。1日ひとつだけ、強くなろう。

 

部屋の湿度より収入を上げてくれ(一般的独身男性の日常)

最近は時間があれば新人賞に応募する作品のアイディア出しをするようにしている。

どうせ書くなら今までに書いた作品よりいいものにしたい。過去に書いた作品はプロット作成が早すぎたという反省から、プロット作成に入る前の準備に時間をかけているが、過去に書いた小説より良くしようという思いが良くも悪くも邪魔をしてしまい、思うように作業が進まない。

気がつくと息抜きと称してツイッターを眺めてしまったり、お菓子を食べてしまったり、youtubeで毒にも薬にもならない動画を見てしまう。あとに残るのは罪悪感と、目の疲労感。あとで自己嫌悪感に苦しむと分かっているのに、やめられない。ファッションの解説動画はまだ勉強になるからいいとして、古いゲームのTASなんて見たって意味がない。たまにそうやって脇道にそれることによってアイディアが思いつくことがあるが、それは基本的に考慮しても意味のないことだ。俺は愚かだ。殺してくれ。

そんな一日を過ごしていると「あー、やっぱり俺ダメだな」と自己憐憫というぬるま湯に浸かりそうになってしまうが、それこそがダメだ。今の自分を受け入れるしか無い。その上で、どうやったら今よりツイッターyoutubeで時間を無駄遣いしてしまう事を避けられるか考えたほうが生産的だ。

こんな事は今までの人生で何度も考えてしまっている事は当然分かっている。だが、人は過ちを繰り返すのだ。頭で分かっていても、人間という生物は基本的に怠惰なので楽な方向に流れてしまうのだ。だからこうやって定期的に自分に言い聞かせて、自分を奮い立たせ、なだめるのだ。

女の子は救済ではない。死こそ救済。

新しい服でいい気分になった話

最近メンズファッションはビッグシルエットが流行っている。
服屋に行くとやはり大きめの服が売っているし、働いている店員さんもビッグシルエットだ。
上手く着こなしている人を見かけるとおしゃれだな〜。と思うし、ビッグシルエットは欧米の人に比べて体型がきれいとは言えない日本人の体型を隠してくれる。だから年を取って体型が崩れ始めた人も、もともと太ってる人もこのビッグウェーブに乗ったほうがいい。
自分もジャストサイズの服ばかり着ていないで、ビッグシルエットに手を出そうと思ってはいるのだが、中々手が出せないでいた。
理由は、当時とは細かいところが違うとはいえビッグシルエットに90年代さを感じてしまうことだ。
もちろんブームは繰り返すと頭ではわかっているし、当時とは着る服も色使いも違うと分かっているが、どうしてもビッグシルエット=古いものと頭が認識してしまい、着る気が起きなかった。
それに自分はなんだかんだで体を鍛えているので、せっかくの体型が隠れてしまうのが気に食わない。
そしてなにより、昔の自分を思い出してしまうからだ。といっても昔の自分はビッグシルエットではなく、ただサイズがあってなかっただけなのだが。
それでも、こじつけ感があるのだがどうしてもなかったことにしたい昔のダサい自分を思い出してしまうのだ。そのダサかった頃にDQNに絡まれて「アッアッアッ」としか言えなかった頃の自分を思い出すと今でも死にたくなる。
あと着慣れたジャストサイズから動くのが怖い。
しかし最近流石にこのままじゃまずいと思って何枚かオーバーサイズの服を買ってみた。
来た直後は違和感しかなかったのだが、それを着て歩いているうちに意外と悪くないことに気づいた。ビッグシルエットだと、体が大きく見える。体の大きさはオス的な強さの要素の一つだ。自然と気持ちも、態度も、歩き方も変わっていた。なんだか楽しい。これは良い。
やはり、食わず嫌いは良くない。ささいなことだが、コンフォートゾーンから抜け出せたことで爽快感がある。でもやっぱり下半身は細い服を着たほうがかっこいい気がする。

薄っぺらい

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が上映されてしばらく経ち、感想記事を見かけることが増えていく一方だ。

感想の中には熱くなりすぎて庵野秀明監督への人格否定にまで達してしまっているものすらある。人格否定までしてしまうのは行き過ぎだとは思うのだが、何千文字も熱く語れる面倒くさいオタクを見ていると、うらやましくなってくる。

あれがダメ、ここがダメと細かいツッコミをひたすら書き連ねるのも、きっと彼の大好きでたまらない庵野秀明監督ならきっとそれくらいできたはずだという期待の現れだろう。どうでもいいと思っていたのなら、わざわざ貴重な時間を使って長文の記事なんて書いたりしないはずだ。文中ではひたすら文句ばかりだが、それほどまでにエヴァンゲリオンという作品を愛し、楽しんでいたことが伝わってくる。

自分が何かをそこまで熱くなりすぎて周りの人がめんどくせーと思うまでに語れたことがあっただろうか。ないかもしれない。なにかに夢中になっても、ここまで言語化できたことはなかった。面白かった、楽しかった、つまらなかったという汎用性のある、細かいニュアンスが一気に削ぎ落とされる言葉で終わらせてしまっていた。

昔は分厚かったわけじゃないけど、薄っぺらい男になっちまったなーと思ってしまう。まあ、これから分厚くなればいいだけなんだけどね。

あなたには失望しました

「今までの人生で失敗ばかりだったせいか、自分に自信が持てず、全てを諦めてしまっている。そしてそれが表情に出ている」

このような事を面と向かって言われてしまった。チクチク言葉どころかグサグサ言葉だ。主観的には自分は変われたと思っていたのだが、たった数年程度の努力ではダメなようだ。まあ、なんとなく分かっていたけどな!

こんな事言われるのは地団駄を踏みたくなるし、何とか自分を変えようとしてみたものの、未だに『そっち側』から離れることができない自分が悔しくてたまらない。

昔はそうじゃなかった気がする。無駄な自信にあふれていた気がする。だがそれはきっと勝負をしていなかったからなのだろう。別に昔は強いわけではなかった。1敗2敗と敗北を重ねていくうちに徐々に自信ポイントが減っていき、気がつけば自分に自信を持てなくなってしまったのだ。

人間社会で生きていく以上、勝負は避けられない。受験、就職、恋愛、仕事。様々な場面で誰かが勝てば、必ず誰かに負けが押し付けられる。そして負けを誰かに押し付けられる人間は勢いづき勝利の階段を登り、負けを押し付けられ続ける人間はどん底へ沈んでいく一方だ。そこに一発逆転はない。

そして負けグセは負けたという事実以上のモノを負けグセがついてしまった人間に与えてしまう。今までダメだったのだから、どうせ今回もダメだろうと勝負をしなくなってしまう。諦めの人生だ。敗北が無い代わりに勝利もない。刺激がなく、常に頭に靄がかかっているような、空虚。そしてそんな人生は表情に現れる。頼りない顔つきだ。

まあでもどうしようもない。これが現実なのだ。俺が負け続けるおかげで誰かが勝ち続け幸せになれていると自分を慰めるべきだろうか?そんなのは絶対に嫌だ。勝ちグセがついている人間と、負けグセがついている人間で何が違うのだろうか。やはり、生まれ持った能力なのだろう。有能な親から生まれれば自然と勝利を収め、勝ち続けられるだろう。そして無能から親に生まれれば……。

人間は動物である以上、能力の差ができてしまうのはもう仕方ない。自分のための世界じゃないのだから、人生終了時にあなたは0勝1646546165敗。勝率0%です。と視界にウインドウが出てしまっても別に不思議じゃない。

そんな運命の元に生まれてしまったとしても、このままは嫌だ。負け癖がついている人間に一番必要なのは、負け続ける勇気。これ以上負けを増やさないような生き方には、万が一にも勝利はない。しかし負け続けても勝負を続ければ、奇跡を拾えるかもしれない。何度も心が折れそうになっても、全てを投げ出したくなっても、負け続けるしかない。どうせすでに負けまくっているのだ。多少負けが更に増えたところで問題はないだろう。

まあ、そんな気概があれば負けグセなんてもっと前に払拭できている気がするのだが。となればもう頭を空っぽにして動くしか無いのかもしれない。それこそ、死んでも構わないと、死にものぐるいで。それがオスという戦うことを義務付けられた性別の宿命なのかもしれない。

シン・エヴァンゲリオン劇場版を見たらなんだか死にたくなった

公開日から遅れる事2日、やっと見に行くことができた。

感想を一言でいうと、

「前半は本当に自分はエヴァンゲリオンという作品の真の完結編を見ているのか。と不安になった」だ。

勿論作中では14年も経ってるし、世界が滅茶苦茶になってしまったのだからあのような状態になってしまうことは不思議でもなんでもない。目を奪われてしまう作画の良さ、そして展開には自然と引き込まれてしまった。それでも、間違いなく自分が見ているのは『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』だと頭でわかっていても、目の前で繰り広げられる展開には困惑せずにはいられなかった。

そんな事を思ってしまったのは、自分には想像のできない展開だったというのもあるが、エヴァンゲリオンがこれで本当に終わりということが信じられなかったからだろう。おそらくシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇でエヴァンゲリオンという作品はこれでシンの終わりを迎えたはずだ。ラストシーンを見る限り、これ以上何か続編があったとしても蛇足にしかならないと思う。

それなのにも関わらず、まだシン・エヴァンゲリオン劇場版の続きがあるような幻覚を抱いてしまうのだ。不思議でたまらない。

所謂『旧シリーズ』はリアルタイムでは見ていないのだが、深夜はキッズ向けではなくなるキッズステーションで何度も見た。ちょっとエッチなシーンが流れた時に感じた気まずさ、そして言葉にうまくできない興奮を抱いた時の感覚は今でも思い出すことができる。そう、自分がエヴァンゲリオンという作品を認識したときにはすでに一旦はエヴァという作品は完結していたのだ。

それでも漫画版はまだ続いていたし、アニメージュの付録にエヴァのリマスター版のDVDがついてきたり、エヴァのゲームも発売されていたりと、この作品はすでに終わっているという感覚はなかった。なんというかドラゴンボールに近い感覚だった。

そして新劇場版が発表され、一作公開されるごとに何年も待つのを繰り返し、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』をもってついに本当に完結しててしまった。今でもやっぱり完結したという実感は相変わらずない。まあ、これからエヴァ関連コンテツが全く出ないということは流石にないだろう。エヴァンゲリオンという作品はドル箱だから。

だがエヴァンゲリオンという作品のストーリーはこれで終わりなんじゃないだろうか。庵野秀明監督も流石にエヴァンゲリオン以外のものを作っていきたいだろう。

 

確かに前半は、というか序盤は「本当に自分はエヴァンゲリオンという作品の真の完結編を見ているのか」と思ってしまったが、2013年でも2017年でもなく、新しい時代を告げる2021年の映画なんだなとつくづく思わせてくれる作品だった。重量感のある演出、アニメだからこそできるカメラワーク、何を食ったらこんなモノ思いつくのだろうと思わずにはいられないメカニックデザイン。そして、終盤のゲンドウの独白には胸を打たれた。自分も同じことを思っていたから。

3時間近い長編だが、終盤は「頼む終わらないでくれ……」と何度も思ってしまった。真っ白な画面に『終劇』と表示されたときは全身の力が抜ける感覚があった。再放送で見ていた世代の自分がそうなのだから、直撃世代の40代くらいの人はどんな感覚なのだろうか。

それにしても、ラストシーンはなんというか、君の名はを思い出さずにはいられなかった。声優が神木隆之介だからじゃなくて、演出でそんなふうに感じてしまった。

とりあえず後一回は見に行きたい。できれば女の子と。ああ、上映終了してしまう。