親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

『天気の子』を見てから抱くようになった謎の喪失感とその原因。

『天気の子』を公開初日に見に行ってから謎の喪失感がずっと胸の中にあった。前に書いた記事に出てきた虚しさと同じものだ。このなんとも言えない虚しさは喪失感なのだなとやっと気づいた。そしてこの喪失感の正体はきっと『思春期時代に恋愛ができなかったこと』によるものだ。

帆高と陽菜の青春っぷりといったら本当に羨ましい。だがあんな自分たちが世界の命運の握ってるなんて経験をした人はいないだろう。それは分かっている。思春期時代に恋愛経験のある人達は『天気の子』を見ても「現実はあんなんじゃないよねー」だとかそういうことを思うのだろう。

しかし私は思春期時代に恋愛ができなかった。もちろん好きな人を選ぶことで世界がとんでもないことになってしまったり、好きになった人が過酷な運命を背負ったりなんてことは現実ではありえないとは分かっている。だが全く経験がないからこそ自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。と思ってしまうのだ。知らないからこそ、過度に取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと想像してしまうのだ。

よく考えたら元々持ってなかったものを手に入れられなかったことに苦しんでいるのだから、この感覚は喪失感ではない。喪失感ではないのだが、この人間社会は過去にある程度決められた経験をすることが前提になっているところがある。経験というパーツを組み立てて、組み立てた結果標準的な大人になるのだ。その中に思春期に恋愛をする。というのが含まれていると個人的に思っている。おそらくほとんどの人もそう思っているはずだ。そして私という人間をパズルに例えるならば一部分確実にピースがはまっていないのだ。このピースは取れてどこかに行ってしまったのではなく元々はまってない。だが今までそれを意識することがなかった。ピースがはまっていないことをさほど気にすることがなかった。しかし『天気の子』を見てしまったことで「お前にはここのピースがはまっていない!」ということに気づいてしまったのだ。そしてそれが苦しいのだ。手に入れられなかった苦しみ。一番何が近い感覚なのかと言われると、喪失感なのだ。

 

ここまで記事を書いて「いやー俺気持ち悪いくらいこじらせてるなw」と笑いがこみ上げてきた。恋愛観が思春期時代で止まってしまっている。幻想を持ちすぎている。この幻想をぶち壊すには夢をかなえるゾウ水野敬也先生の提唱するBTO(ブサイクティーチャーオノ)理論よろしく一度ブスとでも付き合ってみるしかないのかもしれない。おそらく見事に幻想が壊れるだろう。だがブスと歩いてる自分を想像したら死にたくなってくるし、ブスのために時間を使いたくない。それに私はすでに社会人だ。今から誰かと付き合ったところで思春期は取り戻せない。それだったら想像の世界に浸って理想を抱いて溺死したほうが何倍もマシだ。それにそんなことを考えてしまうような男に付き合わせるのは相手に失礼だ(どこまで行っても非情になれない。だから私はモテないのだろうw)