親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

他人とのコミュニケーションが少なすぎて自己嫌悪に陥った話

コミュ障という他人と上手く感情の交換や会話のキャッチボールができない人間の事を指す言葉がある。

先天的に何らかの障害があって上手くできない人もいるにはいるが、単純に他人とのコミュニケーションが少ないため他人とどう接したら良いのかそもそも分からない、いわばコミュ少もいるのではないかと思っている。

当然だが、知らない事は上手くできない。他人と関わることが極めて少なければ、何を言えば喜んでもらえるのか、何を言ってはいけないのか、そんなことすら分からない。

とはいったものの最初から上手くできる人はいない。大多数の人は最初は他人を怒らせたり、泣かせたりしているうちに自然と覚えていくのだ。

だが、大切な誰かを傷つけてしまった事により他人と関わることを避けるようになったり、他人と関わることより面白いものを見つけた等……様々な理由でコミュ少になってしまう人々が一定数現れる。ちなみに自分もその一人だ。

同年代の同性とは上手く話せるのに、大きく年が離れている相手や異性と上手く話せないのも言ってしまえばコミュ少によって発生しているのだ。同じ日本人で日本語を話していても、性別や年代が変わってしまえば単語一つの持つニュアンスも違うことがあるし、価値観がそもそも違う。相手が日本語を話していても、普段使用している日本語とはまたちがう日本語で会話をする必要が出てくる。

例えばコミュ障という言葉。もう根に持っていすぎて何度も言いたいのだが、女の子の言う自称コミュ障は本当にコミュ障なのか疑いたくなる。いくら可愛くても本当にまともにコミュニケーションが成り立たなかったら恋人なんているわけ無いだろいい加減にしろ!

話がそれてしまったが、とにかく、その本人の素質や飲み込みの良さにもよるがコミュ障の人にはただのコミュ少の人もいるのではないだろうか。自分はそうだと切実に信じたい。

 

ここから本題だ。最近ずっと在宅勤務をしているので人と話すことが本当に無くなった。もちろんビデオ通話で必要最低限な会話はしているが、あれはコミュニケーションというよりは単なる情報交換・共有でしかない。情報を過不足無く相手に伝えることができれば、どんな言葉を発する前に最初に「あっ」と言うようなクセがあっても全く問題ない。

そんな生活をしているおかげでコミュニケーション能力がどうやら相当落ちてしまったようだ。コミュニケーション力、と一口に言っても相手の言っていることを正確に理解する。表情や動きから心の内を読み取る。他人と気分良く会話のキャッチボールを続ける。等、大量の要素からできているが大半が衰えてしまった気がする。

そして在宅勤務は言ってしまえばかなり自分勝手に仕事ができる。好きな音楽をかけられるし、ニンニクを食べながら仕事をすることもやろうと思えばできる。コミュニケーションとは多少なり自制心、我慢が必要になってくるがそれらの能力も落ちてしまった事も大きそうだ。

今回自己嫌悪に陥ってしまった事件はスーパーで起きた。セルフレジの順番待ちをしていたら、横から老婦人が横入りしようとしてきた。当然呼び止めて「ちゃんと並んでもらっていいですか?」と注意したのだが、老婦人からは「そこでもう会計しているので……」と返ってきた。

どうやら老婦人はすでにレジで会計をしているお連れの方のところに行こうとしていただけだった。よく見ればカゴも商品も何も持っていない。手ぶらだ。

この場合どう返すのが正解かというと、「すみません」一択だ。これが一番角が立たない。

そんなことは分かっていたはずなのに、なぜかわからないが自分は「あっそうすか」と拗ねたように返してしまった。言った瞬間「俺アホか? ガキだろ」と内心で激しい自己嫌悪に陥ってしまった。

正しい行動を脊髄反射で行えるようにするためには、日頃から意識して習慣として続けていることが必要だ。サボってしまうとあっという間に手癖で楽なように動いてしまう。自分の生活習慣が他人と関わることがなさすぎたせいで、他人を怒らせたり、傷つけたりしないよう上手に接することができなくなってしまったようだ。なんとかしなければ。

しかし出社したらしたで悩みがあるので、どちらを取るかと言われると在宅勤務を取ってしまう。というわけで毎晩コミュニケーションを取ってくれる女の子募集中です。

愚者がグシャグシャ

最近ふとした瞬間、「消えてしまいたいな……」と思う。

なぜそんな感情を抱くのだろう?続きが気になるアニメはあるし、やりたいこともないでもない。

しかし「なんかもう良いかな」と思ってしまうのだ。

きっと自分の可能性を信じられなくなったからなのだろう。ある程度生きてきて自分は他人と比べてどれくらいの能力を持っているのか何となく分かってしまった。そしてそこから大きく成長することは難しい。そもそも人間の能力は遺伝で決まっているのだ。

まあ、能力があるからといって胡座をかいていては原石のままで終わってしまうのだが、それはそれとして残念ながら『鳶の子は鷹にならず』ということわざがあるように、なんとか鷹になろうと思っても、鳶は死ぬまで鳶なのだ。

創作の世界では凡才が天才を倒すという展開を見かけることがあるが、実際は逆だ。持つ者たちは自分が必死で求めたものを簡単に手に入れてしまい、しかも手に入れたそれにまるで大した価値がないように振る舞う。そんな態度に劣等感と、怒りを抱いてしまうのだ。

技術書を読みながら小説を書いているが思ったより学んだ知識を内容に反映できないし、恋愛力を上げる本を読んで出会いの場に何度も行ってみたが上手く行かない。昔柔道をやっていたけど闘争心がなさすぎて相手には舐められる、大会では一度も勝ったことがない。自分は認めたくないが、凡才どころか、平均未満の男だ。

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』という言葉があるが、自分はまさに経験から自分はダメで、これからもダメと決めつけてしまっていた。やっぱり俺は愚者だったのか!

じゃあ歴史に学べば賢者になれるのだろうか?いや、学んだところで知識オタクになるだけでなれないだろう。

それでも、できることをやっていくしかない。腐ってしまったら完全終了だ。持つものが総取りする世界で腐らずに努力できる俺は格好いいと自分を鼓舞していくのだ。いつか自分を愛してくれる女の子が現れると信じるのと同じように、眠っていた才能が目覚める可能性を信じるのだ。

それにこうやって自分はダメだと言い聞かせていると本当にダメになるだけで、強くなることはまずない。

やはりこうやって胸の内を文章にしていくうちに、自然と自分の思考が悪い方向になっていたのが分かる。なんとかしなければ。いつまでもダメな自分で、自分の事を好きになれずに苦しみながら生き続けるなんて地獄でしか無いし、「俺はダメだ!」と自虐しても「そんなことないよ」と優しく否定してくれる女の子は間違っても現れたりしない。転職しようかな。

それはともかく何度も言っているが、悩みがある人は悩みをブログに書いてみるのをオススメする。人に話す並みにスッキリするし、答えが見つかったりする。それに人の頭の中を文章にしたようなブログ記事が好きな人は割といる。自分も結構好きだ。Twitterで病みツイしがちな人には特にオススメします。

 

さあ冒険だ

 

 

子供の頃より世界が小さく見えるというか、見えない硬い膜に覆われて、それ以上のところにはどうしても行けないような感覚がある。

子供の頃は何でも冒険だった。隣の街に遊びに行く、何か新しいものを食べる。それだけで世界が広がっていく。

だけど大人はそうじゃない、新しい街に行くにしても、街とはどんなものか何となく分かっているから、子供の頃のように隣の市に行くだけで新しい世界に来たような感覚はないし、過去の経験からとんでもない組み合わせの食べ物でもなければ何となく味にも想像がついてしまう。

だからといって大人は刺激を感じなくていいかというとそんなことはなくて、刺激が無いとあっという間にボケてしまうし、刺激がないのが当たり前になってしまうとつまらない大人になってしまう。

だから大人こそ安心できるところから抜け出して、冒険に出たほうが良いと個人的には思う。

しかし、それは今より貧しい生活、精神的につらい生活が待っているかもしれない。そしてそれが今でもそこまで困ってないしなと思わせてしまう。

だけどそれが悪いことでは決して無い。変わらないという決断をするのも選択だ。しかし刺激、線路の上を歩くような予定調和の中にあるような生活は平穏でもつまらない。そして常に我慢していることがある。

新しい世界はもしかしたら新しい我慢をすることになるかもしれないが、今までの我慢は吹き飛ぶかもしれない。

そう、自分にとって完璧な状況は訪れない。やりたいことをやれたとしても、何かを我慢しなきゃいけないし、見た目が好みの女の子でもどうしても我慢ができないところがあって、そのせいで完全に好きになれないかもしれないのだ。

分からない。不安のせいで消えてしまいたくなる。

だけど、不安というのは動かずに不安が常に網膜に張り付いているように常に見えてしまうからさらに大きくなるのだ。

もちろん動いた先には新しい不安が待っている。不安を怖がりすぎなのかもしれない。

だけど怖い。しかしそれと同時に俺は何を怖がっているんだと思っている自分もいる。

 

最近遺産を相続して貯金はあります。よろしくお願いします

午前8時57分。仮面ライダーセイバーを見るために目を覚ます。しかし起き上がる気力が起きず、半分寝ているような意識で視聴開始。おかげで今週の脚本は長谷川圭一さんではなかった事以外何も覚えていない。

午前11時30分。二度寝から目を覚ます。目を覚ました瞬間、なぜか分からないが過去に好きだった女の子達の事を思い出してしまった。モラハラ、タバコを投げつける、浮気をする、皆ろくでもない男と付き合っていた。そして自分は彼女たちとは結局付き合うことはできなかった。もう燃料が残ってないはずなのに「俺はそういう男以下かよ」という怒りの炎が上がり始め、「何が優しい男が好きだ。お前らの言う優しいは女を見下してる男の見せる『甘やかし』のことだろ」と嘲りたくなってしまう。もちろんそんなことに意味はない。なのに反芻するように思い出してしまうのはきっとトラウマになってしまっているからなのだろう。一般敗北者異常独身男性だ。どんどん長くなっていく。東西南北中央不敗スーパーアジアのようだ。

煩悩を振り払うようにベッドから抜け出し、洗面台に向かう。長いこと寝ていたせいで肌が乾燥しきっている。自分の顔を見るのが辛い。こんな顔では女の子に愛してもらうなんて夢のまた夢だ。夢の中でも良いので女の子に愛されたい。

ひげを剃り、女子高生は拾わずに顔を洗い、瞑想を始める。瞑想をしている間もつい取り留めのない事を考えてしまう。集中力がなさすぎる。

瞑想が終わった後は理想ならばすぐに小説を書き始めるところだが、結局は少しツイッターを見てから小説を書き始める。昨晩から何も食べていないため空腹が辛い。しかし日頃パーシャル断食を行っているので、15時まで何も食べることができない。

何とか小説を書くことに意識を集中し、15時になった瞬間に昼食を食べる。しかし食べたものが悪かった。血糖値スパイクが発生して強烈な眠気に襲われる。少しだけ寝ようとワーグナーをBGMにシナモンを抱きしめて眠りに落ちる。気がつけば17時30分。贅沢に時間を使った優雅な日曜日だ。

自己嫌悪感に苛まれながらベッドから抜け出し、買い物に向かう。納豆や冷凍食品など、普段と同じものを購入して帰宅すると炊飯器のスイッチを入れ、筋トレをしながら東映公式で配信されている仮面ライダードライブを視聴する。内田理央演じる詩島霧子の黒タイツが眩しい。

夕飯を食べながらアニメを消化し、デザートにスーパーで買ってきたおやつを食べる。つい想定した以上に食べすぎてしまい今日何度目か分からない自己嫌悪に陥る。やはり1人だと食べすぎてしまう。だから独身男性は早く死んでしまうのだ。

手早く風呂を済ませ、気がつけばもうこんな時間だ。ついネガティブな事を考えてしまう。自分の性格を考えると孤独を楽しめるようにしたほうがいいと分かっているが、寂しい。だが自分の生き方に合致するような都合のいい女の子なんているはずないし、結局1人で死ぬしかないよなと結論づける。FIREを成し遂げて西東京の物件に引っ越して、何年も経ってからミイラになって発見されるような最期を遂げたい。

田舎の一軒家の縁側で毎日女の子と外を眺めながらお茶を飲むような生活

今日はお昼に焼肉を食べた。やはり牛肉は良い。肉を噛みしめるたびにトリプトファンセロトニンに変わる音が頭の中から聞こえてくる。

栄養バランスの取れた食事を全く苦にならず365日続けることができるならいいが、それは厳しい。やはり美味しいものをカロリーだとか栄養バランスだとか気にせずに思いっきり食べる人を作ったほうが精神衛生上良い。

というわけで今日はこんな時間まで遊んでいたわけだが、そんな休日を送るとどうしても不安と自己嫌悪に見舞われてしまう。

遊んで気分転換をすることは大事だと分かっているものの、気分転換しすぎなのでは、そもそもお前は気分転換するほど普段苦労しているのか、そんなに迂闊に金を使ってしまって大丈夫なのか、お前がこうして遊んでいる間も努力している人はいくらでもいるのにそれでいいのか。のような事を考えてしまう。

一寸先は闇だ。来年自分がどうなっているか分からない。一日二日何もしないだけでも、それが何年も続くと毎日努力し続けられる人とは大きく差が開いてしまう。

休日は休む日なのは間違いない。しかし、その日今の自分より僅かだけでも進歩するための何かをしなければその日はゼロではなくマイナスになってしまう。とあるゲームにも、

 人生は、上がるか下がるか。現状維持などない。なぜなら、自分が成長しなくても時間だけは過ぎていくからだ。

というセリフがある。現代は競争。上がることを諦めたものは後からやってきたものに自分の居場所を奪われ、そこから再び上がることは極めて難しい。待っているのは貧しい、誰からも疎んじられる生活だ。

数日だけで何かが大きく変わることはない。しかし毎日の積み重ねで5年後10年後は大きく変わってしまう。当たり前の話だが、今日の自分が未来の自分を作るのだ。スキルをつけて万が一会社が無くなってもまるで困らないようにしたいし、まとまった貯金を作っておいて全くの無収入でも暮らせるようにしておきたい。最近話題になっているFIREにまで行かないにしても、ある程度は自分の力で生きていけるようになりたい。

とはいったものの、何でそんな将来のために今を我慢することしなきゃ将来辛い目に遭うことを回避できないのかと思わずにはいられない。できるならベッドに横になってアマプラで気になった映画をダラダラみて、積ん読になってる小説を消化する毎日を過ごしたい。

そもそも今はアリとキリギリスのアリみたいな暮らしは時代遅れなのだろうか。キリギリスのほうが将来振り返ってみたら正解だったりするのではないだろうか。そんな事を思ってしまうから、両方のつまみ食いのようになってしまって、今も将来も楽しめなくなってしまう。毎日女の子と適当に暮らして、何一つ生産性はないけど、胸を張って「俺は幸せ」といえる人生を送りたい。

んなわきゃないだろ!

やはり首都圏生まれ首都圏育ちの人とは話していて価値観が違うなと思わざるを得ない。湘南や八王子が田舎なわけ無いだろ!

では少し歩けば店は一通りあるわけでもないし、駅がすぐ近くにあるわけではないけどバスや電車を乗り継げば日帰りで都心と往復できるような『微妙』なエリアをなんと呼べば良いのか困る。そのような場所なら西東京でも神奈川でもあるっちゃある。

そういうエリアで育った人たちは都心と比べて『田舎』と呼んでしまうのだが、周りが田んぼと畑だらけ、たまにお年寄りの訛りがキツすぎて何を言ってるのか分からなくなるような、初めて東京に来たときは「テレビの中の世界を歩いてるようだ」と思ってしまうような自分からすると、どう考えても田舎ではない。

つまりこういうことだ。首都圏に生まれた人間は『都心』と自分の生まれ育ったところを比較して相対的な意味で『田舎』と呼ぶのに対して、地方の不便な場所で育った人間は『都会とその周り』をひと括りにして比較して『田舎』と呼ぶのだ。そりゃ噛み合わないわけだ。

女の子の言う『コミュ障』は大体過去に恋人がいたことがあるのに、男が自分を『コミュ障』と認識している場合は大体一人もいたことがないのとよく似ている。

 

暗闇を通り抜ける弾丸

慢性的な痔のため、風呂上がりに座薬を入れることが日常の一部になりつつある。風呂上がりは肛門が柔らかくなるのか、スムーズに入るのだ。冷蔵庫で冷やした座薬がニュルリ!と登っていくときの気持ちよさと言ったら。括約筋ではなく表情が緩む。

あの一瞬だけは痔でよかったな……なんて思ったりしないけど。

今日も風呂上がりに座薬を入れるべく冷蔵庫から一つ取り出し、封を開け、無意識のうちに包装ではなく薬をゴミ箱に放り込んでしまった。さすがに一度ゴミ箱に放り込んだものを肛門に入れる気は起きない。

最近気候のせいか、昼間に太陽の光に当たらないせいか、憂鬱な日が続く。散歩していてもなんか死にたいなあという欲求が収まらない。集中力も続かない。

このブログももう少し書きたかったけど集中力が切れてしまった。まあ、座薬の話を書けたのでいいとしよう。