親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

メールボックスと昔好きだった女の子

gmailを開いたら見慣れないメールが届いていた。googleの規約が変わったことにより、googleドライブの容量を空けないとこのままではメールを受け取れなくなる。という内容のものだった。
googleフォトで不要な写真を消すのが先決かもしれないが、いらないメールを消すことにした。メールの殆どはメルマガばかりなので、FANZAだとか、そういったワードで検索してヒットしたメールを消していく。
それが終わったら、メールボックスの一番最後のページを開き、あきらかにいらなさそうなメールを消していく。
そうしているうちに、メルマガではなく人間から送られてきたメールのやり取りが出てきた。そのメールを見た瞬間、胸の奥がわずかに苦しくなるのを感じた。
相手は、当時淡い想いを寄せていた女の子だ。もう、5年以上前だ。今ならLINEなのだろうが、当時はまだメールでやり取りしていたのだ。
メールの内容は雑談ではなく、事務的なものだ。そんな内容だからか、送ったことも忘れてしまっていた。しかし、そのメールを見た瞬間、当時のことを鮮明に思い出すことができた。懐かしくて、メールの整理そっちのけで思い出に浸ってしまっていた。
当時の自分は女の子に自分の気持ちを伝えるなんて考えられないほどの根暗で、結局彼女に告白するどころか、当時敵視していた男と仲良くしているところを見掛けてしまって悔しくてたまらなかったのを今でも覚えている。

ひとしきり思い出に浸ったあと、今くらいあの時度胸があればな、と思いながらそのメルアド宛にメールを送ってみることにした。当然だが、すでにこのメルアドは使われていない可能性がかなり高い。仮に今も使われていたとしても、相手は自分のことを覚えていない可能性がかなり高い。
それでも、彼女が思い出しやすいように可能な限りの情報をメールに書いて送った。名誉のために言わせてもらうと、下心は限りなくない。ただ、そのときは送らずにはいられなかった。
しばらくして、このメールアドレスは使われていませんというメールが返ってきた。そのメールを見た瞬間、当然だよな。と鼻で笑いつつも、どうしようもない寂しさを感じずにはいられなかった。
正直のところ、今彼女と街ですれ違っても気づかないくらいには彼女の顔を忘れてしまっている。しかし、どこか子犬を思わせる顔と、触ったことはないけど柔らかそうな眉毛は今でも覚えている。

今宵も胸の内を語る

Twitterを眺めていたら、いつの間にか昔の男とよりを戻した人がいた。自由気ままな男で、別れる前に男に散々振り回されて散々文句を言ってた癖に物好きだなwとつい思ってしまった。まあ当人たちの問題なので外野が口を出すようなことではない。自分の人生には1mmも関係ないし。

さらにこの前とある女の子が以前付き合っていた男の話をしてくれた。今も好きらしく彼の事を話す女の子の表情はどこか寂しそうだったけど、同時に過去の幸せな日々を思い出しているのか、嬉しそうで、いい笑顔だった。

そんな彼らに、どうやったらなれるんだろうな。と思わずにはいられない。散々好き勝手に振る舞ってもなぜか女の子からさらに愛されたり、別れたあとも思われ続けられるような男にどうやってなれるのだろう。

そのようなことを考えていたら、昔好きだった女の子の事を今でも思い出すことがあるけど、相手の女の子は俺みたいな男がいたことなんて思い出すどころか、忘れていることを忘れてしまってるんだろうな。と自嘲的な笑みを浮かべたくなってきた。

まあ、自分には彼らが持っているものを持っていない。それだけのことなのだろう。

ただしそんな自分にも理解のある彼女ちゃん……ではなく、「いつかいい人見つかりますよ」と言ってくれる女の子もいる。多分、彼女たちとは仲良くなれるだろう。ただし、どんなに頑張っても言うなれば『ペニスの付いた女友達』というある意味名誉あるなポジションにしかなれないだろうが。

じゃあ、俺はここでゲームオーバーなのかと言ったらそうではない。現在進行系で自分を修正中だ。おかげさまで最近やっと効果が出始めて毎日楽しくやっている。俺は強い!

ただし、今の所自分で末代にしたい。自分自身の弱点や、陥りがちな思考は分かっているが、子供にそれを伝えることは出来ない。自分は自然に振る舞っていたらオスとしての魅力がまるでない個体なのだ。だからきっと自分と似たようなことで苦しむはずだ。自己満足で自分と同じような苦しみを味わう人間をこの世に作り出してしまうなんて残酷な真似が許されるだろうか?いや、許されるはずがない。

そんな風に『自分自身』は思っているが、『人間としての自分』はそんなことお構いなしに「お前で末代になってしまうぞ!なんとかしろ!」と叫び続けている。知らんがな。もし完全に自分を変えることが出来たら「いいから俺の子を孕め!」と言えるようになるのだろうか。それはそれで嫌過ぎるw

 

ポジティブの蓋

最近「を水さんってめっちゃポジティブですよねw」と言われるくらいポジティブだ。自分でもそう思う。去年の終わりくらいに急に開き直ってポジティブになってからとても生きやすい。どんな事にも期待できず悲観的になってしまっていた以前の自分はよく首を吊らずに生きていけたな。と思ってしまうほどだ。

とは言ったものの、現状はネガティブな感情が溢れ出す穴をポジティブで蓋をしている状態のようだ。たまに蓋がずれて、気がつくと「なんかもう疲れたな。死にたいな」と思ってしまうこともある。

それに気づいたので、風呂に入りながらこっそりと頭の中にあるネガティブの穴を覗いてみた。将来の不安、諦め、理想とは遥かに遠い自分への怒り等、直視してはいけないもので充満していた。すぐに見なかったことにした。

以前の自分はそれらを見て見ぬ振りすることは良くない事だと思っていた。その結果不安感に苛まれ、直視したところですぐに解決できるわけでも無いので自己肯定感がどん底まで落ちてしまった。

たしかに、もしかしたらこんなご時世なので明日会社が潰れてしまうかもしれない。明日、死んでしまうかもしれない。

だが絶対に潰れない会社はないし、絶対に死なない人間もいない。だったらいざ潰れたときに考えればいいし、死ぬ直前に考えればいい。将来の不安を少しでもごまかすために今しかないこの瞬間を我慢してしまうのはもったいないことだ。

というわけで明日も明後日も、俺は女の子のために生きる。

 

Twitterを使っていて不思議に感じること

こんなご時世なので両親、親戚を交えてLINEでオンライン新年会をしていた。やはり、地元の両親や親戚と話していると、いつの間にか忘れてしまっていたと思いこんでいた方言が出ていたりと、自然と『両親達と接するときの自分』になっていく。

それと同じように会社で働いているときは『会社で働いているときの自分』になっていくし、状況に応じて勝手に『その場に相応しい自分』に切り替わっていく。

そして『その場に相応しい自分』は後から変更することが難しい。普段は控えめな態度で接していたのに急に積極的な態度に変えるのは中々勇気のいる行動だ。

しかしTwitterには相手がいない。元々『独り言をつぶやく』サービスだからだ。そうすると、自然となりたい自分になれる。なんというか、自分を出せるのだ。よってTwitterで知り合った人と現実で会うと、そんな自分で接することになる。

Twitterで知り合った人は基本的に趣味や考え方が合っているから仲良くなりやすいし、自分を出せるということは自己開示ができるということだ。人間とは不思議なもので、自己開示をした相手に対して親近感を覚えるようにできている。自分を出せて、おまけに趣味や考え方が合っている。仲良くなれるはずだ。

以前からTwitterで知り合った人の方が妙に深い話をできることがあったりして、常々不思議だなあと思っていた。もしかしたらこれが理由の一つかもしれない。もちろん、これだけじゃないと思うけど。

『弱キャラ友崎くん』と『千歳くんはラムネ瓶のなか』2つのラノベを読んで感じたこと

弱キャラ友崎くん』と『千歳くんはラムネ瓶のなか』を少しずつ読んでいっている。

この2作には共通点がある、『弱キャラ友崎くん』は主人公を、『千歳くんはラムネ瓶のなか』は主人公がクラスメイトをリア充にしていくことがテーマの、いわば自己啓発ラノベだ(ツイッターでとある人がこう読んでいた。あまりにも表現が的確すぎるので使わせてもらった)。

正直読んでいて「上手いなあ」と何度も思ってしまう。最近では何も持っていない主人公がある日強大な力を得てしまう作品が人気な中、このような現実世界で変わろうとしていく作品は新鮮に感じてしまう。

自分がこの2作を10代後半〜20代前半くらいに読んでいたら、某ラノベの影響でメロンパンをよく食べてたくらいなので、間違いなく影響を受けてただろうなと思うし、内容も見当外れなことは書いていない。オタク趣味が冷めてしまったら何も誇れることもなく、他人とのコミュニケーションも成り立たない虚無のような存在にならずには済むだろう。もちろん、この2冊だけで全てがまかなえるとは思えないけど、その時は自発的に情報を集めるようになっているはずだ。

恥ずかしい話だが、昔は『千歳くんはラムネ瓶のなか』の健太を5倍くらいに薄めたような事は思っていた上に、引きこもりにはならないにしても健太のような事を経験していた。だから、その時にこの本があれば多少は人生変わってたかな?と思わずにはいられない。

だからこそ、このような作品を積極的に売り出していく小学館にはやるなあ!と賞賛したいのだが、ラノベという場所は「聖域でいてほしい」と同時に思っている。このような作品ばかりになるのもやだなあ、と面倒くさいことを考えてしまった。

今年1年、いい年だった!

気がつけば2020年もあと1週間だ。ちょっと早いが今年1年をまとめたくなってきた。さすがに残り1週間で今までの359日がひっくり返るような事が起こるなんて考えにくいだろうし。

今年1年は、漢字で表すならば『開』だ。正直、これ以外にしっくり来る漢字がないと言っても過言では無いくらいだ。

何故『開』なのか、ずらずらと書いていこうと思う。

 

まず1つ目の『開』は『き直る』だ。

以前の自分はあれこれと自分の中に溜めがちだった。不満があっても、欲しい物があっても、それらを心の奥に封じ込め、善良で無害な一市民を演じようとしてた。そして、自分とは正反対なあけすけな人たちを「なんて浅ましい奴なんだと」どこか冷ややかな目で見ていた。そしてそういう人たちに限って人生楽しそうなのが余計憎たらしかった。

まあ、確かになんでもかんでも表に出すのは良くない。しかしそうやって何でもかんでも溜め込んでいてもいいことなんて何一つない。

察してくれて「もしかして我慢してる?」って尋ねてくれる人もいるかもしれないが、他人が他人の考えている事を察することは想像以上に難しい。普段にこやかに振る舞っていても心に闇を抱えてる人なんていくらでもいる。

他人に自分の希望を言うのは怖い。だったら自分が我慢すれば……とどうしても思ってしまう。しかしそうすると、周りからただの便利なやつと思われてしまう。

というわけで、今年はいつ頃からだったか忘れてしまったが、『自分が演じたい自分』ではなく、素の自分で行くことにした。

そして数ヶ月。最近、今までの自分はなんだったんだと思うほど、生きやすい。当然勿論将来に不安が無いわけでもないし、悪く言えば頭からっぽで生きている。

しかしどんなに一生懸命努力を重ねたとしても事故でそれらの努力が完全に無意味になってしまうかもしれないし、何もして無くてもある日黒髪ロングストレートの美少女が自分に迫ってくるかもしれない。だったら、今この瞬間でできることをやればいい。そうすれば、将来何かあっても、その瞬間に現状を良くするために動くことができるはずだ。

 

続いて2つ目の『開』は『新たな扉がいた』だ。

 今年は開き直るだけではなく、新しいことに挑戦してみた。小説を新人賞に応募したし、ドタキャンチャレンジをしたり、お金にモノを言わせてとち狂ったことをしてみたり……。

ちなみに行動に見合った成果があったかと言うとちょっと微妙かもしれないが、新たな扉を開いたことで手に入れられたものがいくつかある。それらは言わば行動の副産物のようなものなのかもしれない。小説を読んでいて想像もつかないどんでん返しがあったときのような嬉しさだ。

新たな挑戦はやはり何が起こるかわからないから怖い。しかしいざ扉を開けて新たな世界を覗いてみたら、扉の先の世界は自分にとっては過ごしやすいかもしれないし、扉の先にある本当に欲しかった物は手に入らなくても、違う『何か』を得られるかもしれない。そして、それは本当に欲しかった『それ』よりも価値のあるものかもしれない。

 

 

危ない!

日常を過ごしていると、同じような展開に遭遇してしまうことが1年に1回くらいはある。そして前回は苦い思いをしていたりすると、今回も何かあるのでは。と嫌な予感を抱かずにはいられない。

もちろん、それは偶然だ。前回も嫌なことがあったからと言って、今回も嫌なことがあるという保証はどこにもない。

しかしどうしても「同じようになってしまったらどうしよう」という不安感を完全に拭い去ることはできない。それが論理的ではないと分かっていても。

きっとこれは人類が進化の過程で手に入れたものなのだろう。はるか昔、人類が危険と隣合わせの環境で生きていた。うっかり天敵だらけの場所に足を踏み入れてしまう事も日常茶飯事だったはずだ。そのときは命からがら逃げられたとしても、次回は命を落としてしまう可能性は極めて高い。だから進化の過程で似たような状況に再び出会ってしまうと本能が危険を発するようにできているのだろう。

とは言ったものの、自分でもいくらなんでもこじつけが過ぎていると感じることがある。もしかしたら進化の過程なんて別に関係なくて、単に自分が心配性すぎるだけなのかもしれないw