親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

天井の照明を眺めながら

祝日の昼下がり。読書の最中不意に集中力が切れた。そういうときは大抵Twitterを開いたり、ニュースサイトをチェックしたりして時間を浪費してしまっていた。

しかし今日はそんな気分になれなかった。背もたれに背中預けながら首を大きく反らし、天井を眺めながら取り留めのないことを考えていた。音楽もかけず、外からは何も聞こえず、視界に入るのは天井にある照明のみ。気がつけばスマートフォンで何かを見出してしまうから、そういえばこんな風にただぼんやりしているのは久しぶりだった。

ただぼんやりとしていると、心が穏やかになっていくのが分かった。そしてたまにはこういう時間が大事だと分かってはいたが、ほとんどそのような時間が取れていなかった。

そしてそのまま天井を見つめている内に一つの事を考え始めていた。やはり今の世の中に溢れている情報の量は、人間の脳のキャパシティを超えている。その大量の情報を脳に押し込まれているうちに、情報の中に棲む人格のようなものを脳にインストールされてしまう。そしてその人格をインストールされることは良いことだとは思えない。

別に最新のデバイスを持っていなくても、一等地に住んでいなくても、美しい恋人がいなくても、幸せを得ることはできるし、それらが無いからといって不幸せというわけでもない。

とは言ったもの、このご時世でスマートフォンを持っていなかったら困ることはあるだろうし、孤独はふとした時に虚無感を覚える。しかしそれも価値観の一つだ。何かを持っていない人間が、持っている人間と比べて不便な思いをすることは当然だ。しかしそれがイコール不幸というわけではない。

ここら辺りで気持ちよくオチをつけようと思ったのだが、取り留めのないことをメモに箇条書きして、文章化したものだから上手くオチがつけられなかった。それに文章化する段階で、圧縮音源のように様々なものが抜け落ちてしまった感があるのが否めない。しかし、それが文章のいいところだ。

こうなっちゃうと案外気づかない

2020年9月20日夜。自分の中にあった価値観もとい固定観念が破壊された。

破壊された直後は一時的に思考能力が著しく低下し、そんな固定観念に脳を支配された事により捻くれた見方しかできなくなっていた自分が恥ずかしくて仕方なかった。そしてしばらくの間は、頭の中に破壊された固定観念の残骸が漂っているような感覚があった。

どうしてこんな固定観念に支配されてしまっていたのかしばらく考えていた。

今まで自分の人生でとある事で何度も嫌な思いをしてきたことがあった。そのおかげで自分の中にその今回破壊された固定観念の幼体のようなものが生まれていた。そして同じような考えをしている人は、Twitterに結構な数存在していた。加えてその固定観念をさらに強くするようなエピソードを目にしてきた。そして気がつけば自分の中で固定観念の幼体は徐々に成長していき、自分の思考中枢を支配するまでになってしまった。いわゆる確証バイアスというやつだ。

Twitterを利用しているのは日本人でも1/3しかいない。30%程度のそれも一部の偏った意見だけで『これは正しい』と決めつけてしまうのは危険なことだ。もしかしたら正しいかもしれないが、それでも思考停止してしまうのはいいことではない。

自分に都合のいい意見ばかり取り入れていないで、『自分の頭で考えること』を大事にしていきたいと思った夜だった。

それにしても今回自分の中におかしな固定観念が生まれてしまったのは、Twitterにかじりついていたのがかなり大きい。今日もTwitterを何の気無しに開いたが、今回の事を思い出した途端、またおかしな思考に囚われるのではないかという恐怖感に襲われてすぐに閉じてしまった。楽しいし、便利なSNSだが、やはり付き合い方を考えなければならない。

 

それはそれとして、電車に乗っていて隣にカップルが座ってきた瞬間、車両を移動しないと苦痛でたまらなくなってしまう奇病を治療する方法はないでしょうか。

16年越しの理解

日本のロックバンドASIAN KUNG-FU GENERATIONにリライトという曲がある。

その曲の中にこのような歌詞がある。

軋んだ想いを吐き出したいのは存在の証明が他にないから

 

www.oricon.co.jp

 

初めてこの歌詞を聴いた時、正直ってよく意味がわからなかった。

時は流れて16年後。ある日Youtube Musicでシャッフル再生をしていたらこのリライトが流れてきた。そしてこのワンフレーズを聴いた瞬間、気づいたのだ。

「これってTwitterでよく見かける奴じゃん……」

Twitterを眺めていると、結構な頻度で自分にあった悲惨なことを面白おかしくしたツイートが流れてくることがある。しかしそのツイートをした本人はツイートの内容とは裏腹に深く悲しんでいることだろう。

退屈で平凡で、自分より上の人間にいい暮らしをさせるために、1日の大半を費やして僅かな給料を受け取る鉛色の毎日を送っていたかもしれない。

それでも文句も言わずに真面目に働き続けていたのに、その理不尽な仕打ちに、「俺、何か悪いことした?」と天に向かって叫びたくなったかもしれない。

それでも心からピエロになりきって悲惨なことを面白おかしく書くと、ウケるのだ。自分のことを知らない人が同情してくれたり、笑ってくれたりするのだ。誰かを輝かせるために過ごしてきた人生で、自分が主役になれるのだ。悲しいけど、嬉しいのだ。

やはりゴッチってスゴイなあ。こんな記事を書いていたら、高校生の頃ゴッチにあこがれて髪型も眼鏡もゴッチっぽくしていたのを思い出した。まあゴッチじゃなくてボッチだったのだが。

 

 

やはり深夜はよからぬことを考えてしまう。

個人的に湯船に潜るのが好きだ。瞼の裏にある模様のある闇の中で何かを考えるのは、わずかだが非日常感がある。

今日もなんとなく湯船に潜り、闇の中でとりとめのないことを考えているうちに息苦しくなってきた。湯船から頭を出して息継ぎをしなければ……と思ったものの、ほんの僅か、微粒子レベルでだが、「このまま息を止め続けて死んでしまってもいいかな?」と思ってしまった。

当然ほんの僅かしか思ってない上に、窒息死なんて苦しくて嫌なのですぐに頭を出した。それでもしばらくはそんなことを考えてしまうならばどうすればいいのかを考えていた。

すでに自分の中では答えが出ている。それはこれからの人生でどんな事が起こるかが良くも悪くもなんとなく想像がついてしまうからだ。おそらく恋人もできることもなくこのまま独身だろうし、今いる会社はもしかしたら潰れているかもしれない。しばらくは安泰だとしても、徐々に立場が上がってしまって給料はそんなに上がらない癖に自由な時間は減ってしまうかもしれない。定年なんてものは存在せず、晩年は一人寂しくドロドロの液体になって発見されることだろう。

しかしそんなのは嫌なので、最近は新人賞に応募するために小説を書いている。エンタメ業界に刺激的なものを期待しているわけではない。それでも小説を書くのは楽しいし、いい縁があれば今の自分ならば絶対に出会うことのない人と知り合ったり、絶対に行くことのない場所に行ったりすることもあるかもしれない。

といってもそれは相当低い確率であることは分かっている。色々やったはいいものの、結局箸にも棒にもかからず平凡で困難な毎日は変わらず、「こんなことなら仕事に生かせる勉強しとけばよかったな」と後悔するかもしれない。ただそれでも今はそんな可能性からは目をそらして頑張りたい。確かに仕事に生かせる勉強をすれば給料は上がるかもしれない。だが笑いが止まらなくなるほど上がったりはしない。それに年齢の割に自分は経験が足りていない。今更本職を頑張るより、小説でも書いてみて一発当てようとするほうが期待値が高いのだ。

こんな偉そうなことを言っておいてなんだが、平日は思った以上に小説が書けない。夜は疲れてあまり筆が進まないし、朝早起きして書こうにも意志が弱いせいで大体二度寝してほとんど書く時間が取れない。休日も家事をしたり、平日に残った疲れを解消するために昼寝をしてしまったりと思った以上に書く時間が取れない。本当かどうかは知らないが、本当に現状をなんとかしたいなら池井戸潤のように脱サラをしたほうがいいのかもしれない。

ただ、個人的にはそれは絶対に選んではいけないと思っている。自分はすでに一回脱サラをしているから。

脱サラして夢を追いかけていた毎日はたしかに刺激的だった。ただし疲れる。不安になる。刺激的と言っても、暗闇の中綱渡りをしているようなものだ。そんな状況に置かれている興奮できるかもしれないが、いつ足を踏み外すかわからないし、いつ綱が切り落とされるか分かったものではない。正直言って、退路を断って自分を奮い立たせることができる人は脱サラなんてしなくても時間がかかるだけで『何か』を掴み取れるのではないかと思っている。それ以外の人は太い実家があるか、何も残らなかった後に「平凡を選んでよかった」と後悔しない自信がある人だけだ。

それでもやはり平凡だけはつまらないので、今の自分のように平凡(以下)の上を歩きながら変化を求めてしまうのだ。数年後の自分は、こんな記事を書いている今の自分には想像もできないような経験をできているといいな。無論いい意味で。

 

独身男性は早死しやすい。

しかし年金は払わなければいけない。

よって独身男性にとって年金は税金となんだ変わらない。そして独身男性達が払った税金は……。

なんだか悲しくなってくる。ああ年金払いたくねえ。

やっぱり男はつらいよ。世は男性社会だとか言うけど『強い男性』社会だからね。俺のようなイケメンでもない、頭も別にいいわけでもない、高収入でもない、女性観が歪みまくってる俺には恩恵がありません。その辺の女性より力はあるかもしれないけど現代社会では物理的殺傷力より社会的殺傷力が大事だから全く意味がない。僕たち『強くない男性』は女性に簡単に社会的に殺されてしまいます。

Twitterで女ってだけでいい思いしてる奴らを見ると若い女全員20歳くらい一気に年を取る呪いをかけたくなってくる。

まあその代わり男は若さを失うのに伴う苦痛が女性よりは少ないのは、せめてもの救いだ。人生の早い段階でただの自分に価値は無いと気づけるから、毎日頑張って自分の能力を上げて将来のために頑張ろうと思える。まあ逆を言えば頑張れないと死ぬんだけどね。

 

 

たまには下ネタの記事を書きたい。

自然界には交尾をした後オスはそのまま死んでしまう生物がたくさんいる。鮭、ハチ、カマキリ(なんとメスに食われてしまう!)など、挙げればキリがない。

幸いなことに人間のオスは交尾をした後も死なない。ありがたいことなのか、ありがたくないことなのかは分からないけど。

ただし死なない代わりに賢者タイムがやってくる。この特別な時間がやってくると体の中でのたうち回っていた強力なエネルギーが一瞬にして消失してしまう。そして疲労感がやってくる。おまけに性欲以外も一時的に消失してしまう。一発ぶっ放す前にはあれをしよう、これをしようと色々思っていたことがあってもぶっ放してしまうと「どうでもいいわ~」と全てを放り出して床に横たわってしまう。賢者と言うよりこれではどう考えても愚者だ。体の外に精液と一緒に魂の一部も出ていってしまったかのようだ。

かといって何日も溜めていると全身が熟したトマトのように、いとも簡単に破裂しそうになってしまう。いつぞやに気の迷いで2週間くらいオナ禁をしたときの苦痛は今でも覚えている。

かといってぶっ放してしまうと全てがどうでも良くなってしまう。性欲は性欲として独立しているのではなく、他の要素と繋がっていることを身を以て知ることができるが人間の体ってやはり面倒くさい。

楽しくやろうや

先日おっさんだけの飲み会に行ってきた。精神が荒み、『孤独をつぶやいていた』自分にとっては闇の中から引き上げられたような気分だった。上手く気持ちを伝えられなくて自己嫌悪を抱くくらいに感謝している。

やはりおっさんだけの飲み会は気が楽だ。話題に事欠くことはないし、脊髄反射で喋っていても盛り上がる。女の子と飲むのも楽しいがどうしても気を使うし、下心を完全にゼロにすることはできない。男だから仕方ないけどね。

それに何か愚痴や悩みを話したときに返ってくる答えが一番的確だ。性別が違うと返ってくる答えも「違うな」と思ってしまうのだ。無論彼女たちが悪いわけではない。生殖行為ができるだけで違う生物なのだから仕方ない。そしてこれは自分にも言えることだ。気をつけよう。

今回飲みに付き合ってもらったおっさんたちは全員自分より年上だった。そしてやはり年上なだけあって、自分が今悩んでいる事をおっさん先輩達も過去に悩んでいた。そして自分はどうしたらいいかある指針が定まった気がする。おっさん先輩達が話してくれたことは言ってしまえばそこまで斬新なことはない。その辺に転がっている自己啓発本にも似たようなことは書いてあるだろう。それでも、先輩たちが経験し感じた事を感情を乗せて話してくれるのは本で知るより遥かに、刺さる。

頑張りましょう。